『日本女子大学聖書研究会は、私にとって』 ガラテヤ3章25−29節 再録

日本女子大学聖書研究会は、私にとって』
ガラテヤ3章25−29節 再録

(1)日本女子大学
「男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3章28節)
 青梅から沖縄へ移住して間もなく、聖書研究会OGの姉妹方の依頼に答えて、「日本女子大の聖書研究会、私にとって」と題し以下のように記しました。

「 ・・・この期間(1978年4月より1986年3月まで)の忘れ難い恵みの一つが、聖書研究会に参加させて頂いたことです。
 何年目のことでしたか。女子大のクラスのため出講する際、聖書研究会で聖書から話すようお招きを受けました。
 その時から1986年4月に沖縄へ移るまで、週一回目白に行く時には、聖書研究会の部室で、数名の方々と聖書を読み続け、共に祈るときを持つことが許されたのです。
 聖研の時間は限られたものでした。しかし集会出席を積み重ねて行く過程で、女子大の中に置かれている聖書研究会の真に大切な位置を私なりに強く実感するようになりました。
 男子校から学生全体がキリスト者である日本クリスチャン・カレッジに進学した私にとって、小さなグル−プで聖書を読みながら、大学全体を意識して執り成し祈る経験は、とても貴重なものでした。
 また聖書研究会の集会に参加してからは、毎年の『聖書』の講座も、青梅キリスト教会の祈りの支えと同時に、聖研の姉妹方の背後の祈りに負うところが多いと自覚しました。
 私の知る数年の短い期間だけでも、その年、その年の聖研にそれぞれ特徴があったのは興味深いことで、高校生時代数名の友人たちと続けた、ささやかな聖書研究会のことを思い出したものです。

 私ども首里福音教会では、間もなく会堂の三階に、祈り続けてきました学生センタ−の建設を開始します。一地域教会として学生伝道の使命を果たしたいと願っての一歩です。
 教会から車で10分ほどの所にある、琉球大学の聖書研究会の方々からお招きを受けています。この4月から、毎週金曜日午後6時から7時までともに聖書を読み続けよう、ともに祈り続けようと話し合い、計画を進めているのです。
 あの日本女子大での貴重な経験は、単に過去の思い出というのではなく、これからの歩みにおいて生かされて行くと確信します。
 
 姉妹方も、それぞれの場で、それぞれの方法で聖書研究会での経験を生かし、その継承展開に努めておれられことを覚えます。
 私も私なりに与えられた場で、あの貴重な経験の感謝の印を刻むことを許されるなら、幸いです。
 日本女子大の聖書研究会、それは私にとって、何か自分自身の大学生時代の聖研でもあるような錯覚を与えるほど、意味深いもの。そのように言っても、過言ではないのです。」

 そしてこの23年の間、東京と沖縄の大きな隔たりを越え、女子と男子の差別の壁を越えて日本女子大学は、男子である私にとって、絆が強まり続ける存在なのです。
 私の日本女子大への思いがあまりにも独りよがりにならないように、この30年いつも日本女子大と私どもの仲立ちであり続けくださっている、村田紋子姉に、学生また卒業生の立場から、一文を書いて頂きました。

「宮村先生と日本女子大学」   村田 紋子
宮村先生が、日本女子大プロテスタント聖書研究会に関ってくださったのは、1982年ごろでした。
当時、それまで導いてくださっていた食物学科の荒井先生が牧会のため退職され、学生もとても少なくなっていました。そのような時、英文学科で「聖書」を担当なさっていた宮村先生が、部室に時々来て下さるようになりました。
私たちは、いのちのことば社から後に発行された「申命記」注解書のメッセージに、一般読者よりも早く預かるという恵みを頂いたこともありました。
21章から、「私たちの人生には、なぜこんなことがと思うことが起きる。しかしどのようなことも、神様の御手の中にある」というお話はその後の人生で、時々思い出すことにもなりました。
英文科の授業を、教育学科の私は、単位とは無関係に2年間伺いました。
先生のお話は緻密で丁寧でした。第一コリント12章の箇所で、「あの人の目にとても惹かれたという話は聞きますが、耳に惹かれたということは聞いたことがありません。」という先生の真面目な冗談に、学生たちが遠慮がちに笑っていました。
友人の一人が「先生が、『本当に神様がいる』と思っておられることは感じる」と言っていたこともあります。
当時は手書きの細かいレジメを頂きました。また電車の事故で5分ほど遅れられる時にも先生からのお電話が入っていました。後から遅れてきた学生に、先生は歩み寄ってレジメを手渡しされていました。
小さなことのようですが、大変記憶に残っています。
宮村先生と私たちの聖研の交流は、先生が女子大をお辞めになられてから現在までもずっと続いています。年に1度、川奈から荒井先生もお招きしてOG会を開いてきましたが、宮村先生にはその会にも何度かおいで頂きました。
また数年前荒井先生が沖縄に行かれたことがあり、私もお供しましたが、首里福音教会を直接お訪ねする機会に恵まれました。砂糖黍畑の中の白い教会でした。首里城ひめゆりの塔などをいろいろご案内頂いたことも印象深い思い出です。
聖研は、キャンパスが目白と生田に分かれたこともあり、一時期部員数が減って現在は廃部となってしまいました。経過を折々に宮村先生にもお知らせし、祈って頂きました。
その後は、芦澤姉妹や島田姉妹など聖研OGであり教授として女子大に戻られた姉妹方を中心として、再び聖書を学ぶ会が起こされています。女子大の聖研は長い歴史がありますが、その時々に神様が必要な助けを与えてくださり、導いて下さっていることを感謝したいと思います。

この後現在に至るまで沖縄おける20年の歩みの中で、女子大との絆がさらに、さらに深くなって行くとの思いを深める幾つもの実例があります。
たとえば、私が女子大でお世話になっていた時代から、英文科の新井明先生とは、折に触れ幸いな対話のときを与えられていました。
けれども沖縄移住後は、二人とも息子を農愛高校へ送り出した共通の経験などもあって、以前にも増して一層深い心からの対話を文通を通して重ねて来ました。そうです。先生のお手紙により励ましを受け続けてきました。この主にある交わりは、現に今も深まり広まり行く恵みの物語なのです。

ここでは、宮崎(鈴木)順子さんと蓮見幸恵先生のお二人についお伝えし、主の導きへの感謝を表したいのです。
宮崎順子さんとの出会いを鮮明に記憶しております。
 沖縄移住がすでに定まっていた頃、ある日授業が終った直後、一人の学生が講壇の私のところに来られたのです。そして、授業を通して聖書に深く心を引かれ、教会に出席するようになったこと。さらにこの度、洗礼を受けることになったので報告したいとのお話。
 驚き感謝しながら、「どちらの教会ですか」と聞くと、
「吉祥寺教会、竹森満佐一先生のところです」と。
「え、吉祥寺教会、竹森先生」、
 この喜びの報告を驚きをもって聞いたのが、昨日のようです。

それ以後も手紙を通して、お互いに連絡を保ってきました。
そこへ、今年のはじめ、宮崎順子著、『奇跡のあとに 緑のイングランド滞在記』(文芸社)が恵送されて来たのです。
その本を手にしながら、思わず愛知の地へ電話をかけました。
20数年の年月と距離の隔たりを越え、電話を通し話し合いながら、ごく自然に感謝の祈りへと導かれました。繁聡、健太、知道君三人のこれからの生涯へ恵みの波紋が広がり続けると確信しながらの小さな祈りでした。
今も、『恵みから恵みへ』をお送りすることをはじめ、断続的にメールによる交流が続いています。たとえば、以下のメールを頂き、大いに励まされました。
「宮村 武夫先生
この度は早速お返事をいただきまして、どうも有難うございました。
先生がペテロ・ネメシギ先生の元で学ばれたこともおありだったと知り、とても嬉しく存じました。
女子大で先生から『聖書』のご講義を拝聴させていただきましたが、上智大のクラウス・ルーメル神父もキリスト教の講義にいらしてまして、私はどちらも拝聴する恵みをいただきました。
当時、所属教会は故竹森先生の吉祥寺教会でしたが、そんなこともあって、入信当初から宗派を超えたエキュメニカルな信仰に強く心を惹かれておりました。
名古屋に移り住んで、教会毎に色彩の異なるプロテスタントよりも、カトリックのより普遍的なものを求めて移籍するに至りました。
でも、アメリカで見たカトリック教会は、アメリカナイズされたものでしたし、日本のそれも七五三まで行事に取り入れるほどの柔軟なものでした。
右往左往しましたが、結局、カトリックプロテスタントも、教義上の違いこそあれ、神につながる信仰の根本は同じであるとの結論に達しました。
それにしても、あまりにも我流で意固地な信者に堕したことを恥じ入っております。同時に、神様はこんな私をもお見捨てになることなく、宮村先生を通して光を注ぎ給うことに、深く感謝致しております。
私も、日々戦いつつも楽観的に、すべてを神に委ねて生きてまいりたいと存じます。
宇都宮カトリック教会でのレジメ、本当に有難うございました。
ゆっくり拝読させていただきます。
取り急ぎ御礼まで。
鈴木 順子」

  この場合も、二人のやり取りはそこに留まり限定されることなく、必然的に拡がりを持つのです。二人から三人へ、そして・・・。
  新井明先生からの葉書には、「・・・こうして創造主の栄光が徐々にこの世に満ちていくのだ、と心強く感じます。この世の闇の力がいかに強くともです。
 鈴木順子さんは、先生のご講義に打たれてキリスト教に関心を懐きました。結婚のときには私も関わりました。・・・」と、キリストにある恵みの波紋を、ここにも実感します。

蓮見幸恵先生との出会いは、比較的最近のことです。
2003年4月、J.モルトマン先生が沖縄を訪問された際、蓮見ご夫妻がご一緒に同行なさったのときのことでした。
通訳の労で多忙な蓮見先生。幸恵先生は、比較的ゆとりがあるご様子でした。
ごく自然なことで声をお掛けしたのに、間もなく話しが弾み、先生が日本女子大のご卒業であることや、ある期間『聖書』の授業を私が担当したことなどに及んだのです。
 そうした中で、幸恵先生が聖書研究会やその卒業生会のことをご存知ないと知りました。
 失礼を省みず思い切って言えば、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」(ロ−マ11章4節)状況の中で、「私だけが残されました」(ロ−マ11章節)と訴えるエリヤの姿を連想したのです。
 そこで、聖書研究会のOG会の存在を、あたかも自分がそのメンバーであるかのように心を熱くしてお伝えしたのです。
 そして新井明先生の著書、『湘南雑記――英学徒の随想』(リーベル出版、2001)と『ユリノキの木陰で』(日本女子大学英文科、2000)をお貸ししたのです。
 幸恵先生は、滞在中のホテルで、これらに目を通してくださったのです。
 
他方、蓮見幸恵先生について、このように優れたOGの女性神学者が現に活躍なさっていると村田姉を通しOG会にお伝えしたのです。
 ですから、幸恵先生から、「過日女子大聖研のOG会の方からお便りをいただきました」と伺った時、とても嬉しく思いました。
 青函トンネル工事で、北海道側からと青森側から掘り進めたトンネルが一つになった瞬間の喜びに比すべきもの、オーバーに言えばそうです。

(2)日本女子大学、劣等感からの解き放ち
私が自分は大学卒でないとの劣等感を抱くようになったのは、日本クリスチャン・カレッジ卒業前後のときでした。
 卒業後、大学院で学びを継続したいと願ったのです。しかし大学の認可がない各種学校卒業では、学部の1年生の試験を受ける以外道がないとのことでした。
さらに劣等感が一層強くなった出来事がありました。
それは、4年間の留学を終え、寄居キリスト福音教会の牧師に復職した後のことでした。
埼玉県の寄居の夜間高校で教えるように、当時教会で開いていた読書会のメンバーであった夜間高校の先生方(そのお一人の松本鶴雄先生は、のちに文芸評論家として活躍)から勧められたのです。
しかしこの場合も、大学卒の資格がないため、一同の願いは実現しなかったのです。
このような背景の中で、1978年に日本女子大で『聖書』の講義を担当してから30年、聖研の姉妹方との絆を通して、さらに広く日本女子大のことを考え喜ぶ中で、いつの間にか、大卒でないとの劣等感から解き放たれていったのです。
同時に、日本クリスチャン・カレッジで学びえた恵みがどれほどのものであるかをそれまで以上にはっきりと確認できるようになったのです。
 このように30年の年月の流れの中で、私なりに日本女子大学について知り、学生や卒業生のために祈る営みの中で、誤解を恐れないで言えば、
日本女子大、わが母校』とでも言いたい内的事態が生じてきたと判断するのです。
この事実は、渡邉先生がローマ1章16節に基づき強調され続けた福音の力の実証と、私なりに受け止めています。
 そしてガラテヤ3章5−29節で、
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。
 なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と、
さらに多様な差別を乗り越える福音の力をパウロは明示しています。
 日本センド派遣会の小さな働きが、実際的に諸所各所の場面で、人間が築き、人間を分断する様々な差別を超える役割を少しでも果たすことができますように。
また人を劣等感の苦しみから解き放つために、世界宣教を目指す日本センド派遣会の働きが少しでも足もとでも役立つようにと祈ります。

(3)今にして思えば、1958年秋が
 日本女子大での講義を思い巡らすと、その基盤が、1958年秋に据えられていた事実を今にして思うのです。
 少なくとも、二つの点においてです。
 第一は、1958年、日本クリスチャン・カレッジ入1年生の秋、埼玉県寄居で、アメリカからのジ−ンズ宣教師とカナダからのプライス宣教師、両婦人宣教師による開拓伝道を、私は第一歩からお手伝いしたことです。生まれたばかりの寄居キリスト福音教会で、毎週主日礼拝説教を担当。十代の説教者の卵の誕生です。
危なっかしい初陣の説教を深い祈りをもって毎週聞き続けてくださった、両宣教師と幾人かの方々は、この50年の年月を貫いて、私どものキリスト信仰二人旅のため、忠実に執り成し祈り続けてくださり、現に祈ってくださっているのです。本当に感謝、感謝です。
私は、主の一方的な恵みにより、主イエス・キリストにある兄姉との堅い信頼の絆の中で、説教者としての深い自覚を与えられたのです。

私ども二人は、寄居キリスト福音教会、青梅キリスト教会、そして首里福音教会と、三つの地域教会に仕え切ることを許され、心から感謝しております。
 その間、三つの神学教育機関日本女子大学で私は教えてきた訳です。
 そのすべての授業・講義を、深い意味で、神のことばの説教者として担当してきたと今にして覚えるのです。二足の草鞋(わらじ)を履くのではない。教会の講壇で説教しないことを、教室の教壇で語ることはないと公言してきました。
曲がりなりにも、説教者また説教者の妻としての道を、一方的な恵みに支えられて、50年歩み続けている。そのことが、まさに恵みです(Ⅰコリント15章10節)。
その基盤は、1958年、あの寄居で確かに据えられたのです。

第二は、吉祥寺教会です、竹森満佐一先生です。
 日本クリスチャン・カレッジ入学後、最初に学んでクラスの一つは、ウエストミンスターで学んで来られた柳生望先生のクラスでした。
そこで、「宮村、君の聖書観は、機械霊感説だ」との指摘を受けました。
その時から、聖書をどのように見るか、どのように解釈するかが、私なりに真剣な課題となりました。
そのクラスの課題として、『啓示』というレポートを書き続けたのです。
それと前後して、雑誌『興文』で、竹森先生の一文を読みました。
聖書を真ん中に置き、一方の側に宗教改革者の書を、他の側には無神論者の書を置いて、聖書を読み進める。この先達からの引用を読んだとき、心に記すものがありました。
次の水曜日、日本クリスチャン・カレッジがあった浜田山から井の頭線に乗って吉祥寺に行き教会を訪ねたのです。
 日本クリスチャン・カレッジを卒業するまで3年半、水曜日の集会に通いました。
4年生になってからは、月に一度寄居でなく吉祥寺の教会に出席し、卒業後の牧師としての歩みに備えることを両宣教師と相談し実行したのです。
ですから、「え、吉祥寺教会、竹森先生」なのです。

私のような者が、日本女子大で授業を担当させて頂くためにも、それなりの備えを主はなしてくださる。驚くべき恵みです。

50年前が、ほんの昨日のようです。
ですから、50年後も、実に明日のようです。

OG会は、単に過去の善き時の思い出に留まるのではないはずです。
現在の日本女子大のため、かってあの小さな部室で姉妹方が大学全体のために執り成したように、執り成し祈るのです。
そうして未だ来たらずとも、まさに将来しようとする日本女子大の日々のために、祈る祈祷会としてOG会が尊い使命を果たし続けるように心より期待し、ささやかなりとも私なりに祈るのです。

日本女子大の聖研OG会の姉妹方の外野席にいる応援団の一員として、祈りにおける時間的センスをもって、沖縄で生活する。もったいない恵みです。感謝。