パリの日本人画家・Tomoko OBER-KAZAMA とのメイル交換、あのこと、この人 その1

パリの日本人画家・Tomoko OBER-KAZAMA とのメイル交換、あのこと、この人 その1

Tomoko OBER-KAZAMA姉→宮村
「お元気ですか?
既に2回、9月23日に動画、10月2日に’喜びカタツムリの便り42号’を送っていただきました。
ありがとうございます。忙しく過ごしていてお礼のお返事できませんでした、すみません。

今回家族も知らない思い出話をあなたに聞いて頂きたく、思い出しながら書いてみます。
これは現在の私を形成する血肉になったと思います。

私は新潟に生まれ6歳までそこで過ごしました。両親は東京の外れから空襲が始まるので母の実家がある所に疎開し、そこで私たち3人が生まれたのです。祖父母の所へよく両親又は母に連れられて行きました。
祖父母の家は米屋で当時町の中心にあり、前が神社でした。その小さな神社の建物の横の木製壁面に’地獄図'が描かれており、私は小さいながらも怖さより色彩の美しさに感動したのです。世の中にこの様な色があるのか、と。極彩色で特にオレンジがかった赤と沈んだ緑の組み合わせは素晴らしく、今でも眼に焼きついています。これがたぶん5歳-6歳と思います。

その後足利に父の牧師としての働きのため、引越しし、貧しい家庭でしたので大した玩具はなく、私は週報と一緒に何冊か置いてある本を手に取りましたが、よく読めず分からずでした。しかし1冊衝撃を受けた本がありました。それはバンヤンの’天路暦程’でそれは素晴らしい版画で印刷してありました。こんなすごい本があるなんて、と多分10歳くらいだったと思いますが、子供心に陶酔したのです。

それでは又書きますね。
偕子」

宮村→Tomoko OBER-KAZAMA
「お忙しい日々の中からメール感謝します。
メールを読みながら、母典子を思い出しました。
母は、実践女学校を卒業後、京都で日本画の修行をし画家の道を歩みたい願いを持っていたそうです。
 しかし両親が早くなくなり、長兄がエリート職業軍人と家を離れており、三人の妹のいる身で、とても個人の願いを押し通すことは出来なかったのです。
 貸本屋の剣豪講談と家庭教師の影響でスノーの『中国の赤い星』などとアンバランスな乱読から、その母から、中学に入って、『大地』や『風と共に去りぬ』の世界へ導かれたのです。
 高校生になりキリスト信仰に導かれ、教会の高校生会で、雑誌『のぞみ』を出したのです。その時、母が表紙の絵を描いてくれたのです。叔母をはじめ幾人かの方々が、「さすが」と言って下さりうれしかったです。

 母親つながりで、お母様・風間姉の葬儀の時、沖縄から送った説教を添付します。
日々祝福が豊かにありますように。
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代」