パリ在住の40年以上の画家Tomoko KAZAMA-OBER姉とメール交換、感謝

パリ在住の40年以上の画家Tomoko KAZAMA-OBER姉とメール交換、感謝
 宇都宮の坂本道子姉の姉上とメール交換を開始することが出来、感謝しています。パリで40年間画家としてこられた姉妹との対話は、私にとって貴重な新しい経験の始まりです。

★宮村→Tomoko KAZAMA-OBER
「頌主
ある意味で初めてのメール、別の意味で長らくの主にある交流を感謝しつつのメールを、
差し上げます。
BCCで道子姉に差し上げたとおりの思いです。
主にあってよろしくお願いいたします。

忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代」

☆この背後には、宇都宮の坂本道子姉による配慮と備えが
「宮村先生

おはようございます。
いつもお祈りを感謝いたします。

姉偕子(ともこ)に話しましたのでメールアドレスをお渡しします。
姉はアーティストとしてたくさんの方々との交流があり、フランス、東欧、中欧アメリカ、日本の国をはじめそれぞれの考えに接して感性も刺激させられることが多いかと思います。ヨーロッパで生きていく姉は他の日本人以上に他国の人との交流が深いようです。姉に備えられたアートとキリスト教は主の大きな恵みかと思います。

約40数年前にパリに一人で旅発ちましたが、パリでアーティストとして、妻、母として、どんな思いで生活して絵を描いてきたのかと…。
「神我らと偕に・インマヌエル」の偕子と長女に名付けた父の思いを心に留めていたようです。

姉の枕元には私が贈った宮村先生の著書がおいてあると電話で話していました。
・・・
主にありて
坂本道子」

★宮村→坂本道子
「道子姉
頌主
心のこもったメール感謝します。
「「神我らと偕に・インマヌエル」の偕子と長女に名付けた父の思いを心に留めていた」印象的です。
娘のいない私にとっては、輝きの言葉です。
私の著書のことも光栄です。
偕子姉との直接の交流が、新しい世界へ導いてくださる予感がします。

改めて偕子姉のメールアドレス感謝します。
日光の聖会に備えつつ。
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代」

☆Tomoko KAZAMA-OBER→宮村
「宮村様
初めまして風間偕子OBERです。
妹の道子からはいつもお噂をお聞きしております。
よろしくお願いいたします。
偕子」

★宮村→Tomoko KAZAMA-OBER
「偕子姉
頌主
 メール感謝します。
今後の交流楽しみです、よろしく。
https://youtu.be/Z6BeLx8g3FQ
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代」

☆Tomoko KAZAMA-OBER→宮村
「宮村様
あなたの聖書のお話お聞きました、ありがとうございます。
素敵な色のシャツで沖縄色ですね。

 何年か前の私の体験談を書きます。
夢か、白昼夢か、幻か、分かりませんが、その情景は昼間の空で、頭の後ろのあたりが金色に輝いた白い衣の天使が沢山空中に現れ、私に微笑みかけているのです。
この体験の直後、こんなに沢山のすごい天使達に私は守られているという素晴らしい感激で勇気づけられた事があります。私はそれらを見たいと欲していたのではないのですが、見せられたという感じです。
 それを元に ’天使軍団’ と言う作品を沢山造りましたが、天使は色は白ではなく、あらゆる美しい色を使用しました。
これをパリで発表した時、友人の画家(仏人ですが、オリジナルはユダヤ人)が気に入って小さい作品を買ってくれました。その時の友人の言葉が「この絵は私を守ってくれるから、大事に身近におきますね」と。
私は作品に関して何の説明もしませんでしたが、彼女は何か感じたのでしょう。
 その後別な仏人の作家からの紹介でパリのある教会での展示を要請され、もう既にできているこの’天使軍団’(サイズ130x97cm)2枚を発表したのです。発表するということはとても責任があることなのだと、この小さな出来事で知らされました。
 よく言われる事は私の作品に関して「あなたの作品を見ると元気が出るし、勇気付けられる」と言う言葉でこれはどこの国でも同様でした。
妹にも上記の話はした事があります。
 こういう事はあなたに書かないほうがいいのでしょうか?迷っています。
 偕子」

★宮村→Tomoko KAZAMA-OBER
「偕子様
頌主
 メール感謝します。
聖書における見えるもんと見えないものとの関係。
私が興味を持ち続け、様々な機会で共に考えて来ました。
頂いたメール、この課題に触れており刺激的でした。
私のコラムに実名か匿名で紹介できる可能性があるでしょうか。
以前、風間先生についてかいたことがあります。

日々祝福が豊かにありますように。
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代」

☆Tomoko KAZAMA-OBER→宮村

「宮村様
あなたのコラムに私の実名でかまいませんよ。

後から考えると、先日の’天使’の出来事の何年か前にその伏線があったと思われます。

20年以上も前に何回か北ポーランドグダニスク(例のワレサのいた場所)の西のバルチック海のウエーバーでア-ト・シンポジューム(ヨーロッパのア-テイストを2週間程招待し作品を造り、発表させその街と人々の意識向上のための貢献)に招待され何回か参加しました。いろいろな所でア-ト・シンポがありますが、ここに招待される作家は所謂ステータスになるようなレベルだったのです。これは後から知りました。

ですからヨーロッパの素晴らしい作家にも会う事ができたのです。ホテルと食事つきで色々な作家との交流もできますが、言葉の壁がここではドンとありました。が作家魂はインタ-ナショナルでしかも直ぐ内心を読み取れる作家が沢山いたので言葉の壁は私にはあまり感じられませんでした。

しかし、ポーランド語・ドイツ語・ロシア語・リトアニア語・だったら話せるという作家の中で突っ込んだ話は無理ですね。テ-マが与えられた時もあり、絶対者・悪魔・男・女・天使、の5年間のうち私は女と天使の2年間あそこに行きました。描くにあたり遠い存在だった’天使’を私は個人に問われたのです。この様な経験を通し、あやふやな私に創作を通し真剣に問いただされたことに感謝をしており、’偕子’の名はどうしょうもない私本人よりすごくてこの名に引っ張られているようです...。ある有名なピアニストに偕子の意味を説明した時、その人は「私も(神と)偕にいる」と答えました。
偕子」

★偕子姉と道子姉の父上・風間牧師について、以下の思い出を書いたことがあります。
「1958年4月、東京キリスト教短大の前身日本クリスチャン・カレッジに、私は入学しました。そこは、大学でないばかりか、短大の認可もなかったのです。日本の学制上では、単に各種学校に位置づけられる存在でした。
 ところが、学長ドナルド・E.ホーク先生の広い心と並外れた人脈の目に見える現われとして、実に多彩な方々がチャペル・礼拝の講師として来訪しておりました。
 私がまだクリスチャン・カレッジの下級生であったとき、ある日のチャペルに、その後忘れることの出来ない人物が、説教者として登壇したのです。
 その名は、風間正富。
そうです。道子姉の父上です。

 確かに日本クリスチャン・カレッジの講壇には、多士済々な方々が登場していました。
 しかし風間牧師は、文字どおり登場の仕方が、際立っていたのです。
講壇に立つや否や、驚くほどの声量で、祝詞をあげ出したのです。
礼拝出席一同が、呆気にとられ、度肝を抜かれる中で、尋常ならざる証が繰り広げられたのです。
 13歳のときに、父親死去。新潟で神職に就く親族の養子となったのです。
そのときから、幼いながら神主の仕事を続けたそうです。
 ところが19歳のとき、聖公会の教会が配布したトラクトを手にしたことを契機に、キリスト信仰へ。それがどれ程厳しい道であったかは、今日の時点からでも想像に難くありません(『評伝 風間正富』を書きたいほどです)。
ついには牧師への道へ。そうした激動の歩みの裏づけあっての、チャペルを震わす大声量の祝詞だったのです。
 私がただ一度お会いした、あの時から程なく、風間牧師は50歳の若さで、主のもとに召されたのです。
 風間道子姉との授業を通しての出会いと、父正富先生との礼拝堂でのそれが重なり合って、私の心の奥深く聖霊ご自身による刷り込みがあったと思われます」。