「聖書釈義と聖書解釈の違いと関係」 再録

「聖書釈義と聖書解釈の違いと関係」 再録
                    2014年10月8日(水)
                     東京プレヤーセンター

★ここで指摘している課題がいかに大切か、様々な事態で確信を深めています。

[1] 序
今日の集いの目的
(1)「あの時、あの場所での意味」を求める釈義と、「あの時、あの場所での意味」と同時に、「この時、この場所での意味」を初めから課題にする聖書解釈との違いと関係を知る。聖書にすがって生きる、私たちの生活と生涯のため。
(2) 私たちの前にある課題
誰もが直視すべき、聖書と私たちの間に横たわる世紀の隔たりの事実。
聖書が元々書かれた、あの時・あの場所で、何を意味していたか歴史的背景を重視しながら聖書テキストを読む営み。一口で言えば、これが聖書釈義。そのためには、学び訓練を必要となるとの理解と実践。
その結果、釈義のために必要と考える学びや知識のない人々と聖書の間に、専門的な訓練と知識を持つ人々が立つ必要が了解され、意図しなくとも、聖書と普通の人々の間に溝が生じる傾向。
(3) 問題解決の道としての聖書解釈、「あの時、あの場所での意味」と同時に、「この時、この場所での意味」に目を注ぐ。
何よりも、釈義や解釈の対象である、聖書は何かを確認。

[2]今日確認したい幾つかの点
(1) 聖書自体の中に存在する世紀の隔たりの確認
マタイ1章1節「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図。」
アブラハムダビデの間には約千年、さらにダビデと主イエス・キリストの間にも約千年の世紀の隔たりが存在する事実の確認。

(2) 歴史的背景、二重の背景の確認
① 直接な歴史的背景
普通釈義課題とする、歴史的な背景

天地創造から新天新地までの、驚くべき統一的同時に多様な救いの歴史の確認。これこそ、パウロアブラハムと同じ船に乗っているように、旧約聖書を読んでいる根拠。
そうです、同時代に生きる者としての深い一致です。

[2] 聖霊ご自身、聖書、教会
聖書をどう見るか・聖書観が聖書の味読・身読への道を開く
(1)聖霊ご自身と聖書、聖書解釈を中心に
Ⅱテモテ3:16、17、聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
 全能の神が、現に教会に対して聖書を用いて取られておられる方法、「矯正」・一度にすべてでなく、聖霊ご自身に導かれ継続と継承をもって応答。ヨハネ14−16章に見る約束に堅く立って。

(2)聖書の成立のため、主なる神様が用いられた方法と今聖書が味読・身読されるため用いなさる方法の基本的一致。👂
① ヘブル1章1節、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが」
一度にすべてでなく。

② エレミヤ25:3
「絶えず、しきりに」

[4]集中と展開
(1)集中
 徹底した聖霊ご自身信仰と徹底した聖書信仰 

(2) 展開 
聖書をメガネにして神の創造の業・万物を見る、詩篇119:64
「【主】よ。地はあなたの恵みに満ちています。
 あなたのおきてを私に教えてください。」

「忍耐と希望」−ロ−マ 8:18−25、特に23 に見るキリスト者・教会−
ロ−マ8:23−26、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」