ーヨハネの黙示録の視点・どこから見るかと視野・何が見えるかー

ヨハネの黙示録味読の手引き その2
ヨハネの黙示録の視点・どこから見るかと視野・何が見えるかー

★「魚でなく、魚の釣り方を」との言葉を念頭に。

ヨハネの黙示録の視点・どこから見るかと視野・何が見えるかー
[1]二つの見方
ヨハネの黙示録について,読み手の間に正反対の受け止め方があります。
①一方では,ヨハネの黙示録に見る独特の表現,いわゆる黙示録文学的表現に違和感を持ち、難解な書として、敬遠してしまう場合。
②もう一つの受け止め方があります。
表現の特殊性を認め、その限りでは難解な書であると認めるのです。
しかしヨハネの黙示録を困難な状況に直面する初代教会に与えられた、主イエスの慰めに満ちた力強いメッセージと見、個人的にも励ましを得ているのです。

筆者・宮村は後者の受け取り方をしています。
ヨハネの黙示録に見る表現も,あたかも映像や音響を用いた効果的な伝達と積極的に受け止めたいのです。
黙示録では、主イエスにある救いが単に狭い意味でのキリスト者・教会を対象とするだけではなく,創世記1 章1 節の「初めに,神が天と地を創造した」と同じ雄大な視野で明示されている事実に深い感銘を受けます。
そうです。救済論・神様の救いの恵みと創造論・神様の創造の事実との深みに至る一致です。

[2]一つの実例として
ヨハネの黙示録21章1-8節に見る黙示録の聖霊ご自身についての教えを垣間見たいのです。
①21 章1節
前後関係
21 章1節の理解のためには,直前の20 章11-15 節との関係に注意することが大切です。
そこでは,「地も天もその御前から逃げ去って,あとかたもなくなった.」(11 節)と,天と地の決定的な限界(日本の国歌 「ちよにやちよに」の思想と鋭く対立)を明らかにしています。
しかしそれだけではありません。
「死んだ人々は,これらの書物に書きしるされているところに従って,自分の行ないに応じてさばかれた」(12 節)とあります。
天地の限界と対照的に、おのおの「自分の」と,人間一人一人の尊厳に焦点を絞っています。
天地があとかたもなくなっても、また死の現実の前でも、厳と存在する一人の人間の存在そのものは不動です。まさに個の確立です。
21 章1-8 節は、上記の事実を踏まえ、天と地があとかたもなくなるだけでなく,もう一つの面に意を注ぎます。
「新しい天と新しい地」(1 節)と、宇宙全体の広がりの中で、新しいエルサレム、聖なる公同の教会を描いているのです。

②全体の構造
「新しい天と新しい地」。天地の限界を覚めた目で見据えているだけではないのです。
救いの歴史が再創造を含む、いかに豊かな広がりを持つかしっかり示しています。
これは、日本の国歌 「ちよにやちよに」の思想と対立するばかりではない。
物質を悪と見る思想とも根本的に対立しています。初代教会以来のグノーシス的傾向との徹底的な戦いです。

「新しい」。一方では,「だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って,見よ,すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5 章17 節)とあるように、「新しさ」は、すでに主イエス・キリストの十字架と復活により現実となっています。
しかし同時に、新しさ」は,主イエスの再臨の時に,完成されるもので、「いまだ」現実とはなっていない面もあります。しかしそれは「やがて必ず」現実となるのであり,希望と忍耐をもって私たちは待望しているのです(ローマ8 章25 節)。

[3]創世記1−3 章
黙示録21 章1-8 節を味わう上で、改めて考えさせられることがあります。それは,創世
記1-3 章が聖書の味わいのために,いかに大切な基盤であるか、この事実です。
しかも3章の堕落・罪の背景として、2 章に見る本来の人間の姿。そして2 章の背景として、1 章の天と地の創造。この聖書の基盤と深く対応して,黙示録のこの箇所は描かれています。
その対応を大切にしてこそ、21 章1-8 節のメッ セージを十分受け取ることが出来るのです。

[4]視点・どこから見るかと視野・何が見えるか
視点・どこから見るか
21 章1-8 節について思い巡らすとき、新天新地をこのように描き得る視点は何かを探る必要があります。どこから見れば、このような見方ができるのでしょうか。
ヨハネの黙示録の著者・私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって,神のことばとイエスのあかしとのゆえに,パトモスという島にいた(1章9 節)と自己紹介しています(参照22 章8 節)。
著者は、パトモスと言う南北約16 キロ、東西9 キロの島にあって、そこを視点として、2 章と3 章に見る七つの教会それぞれ、またその全体に目を注いでいるのです。
パトモスに立ち、そのパトモスから,小アジアの七つの教会の現実をしっかり見据え、ヨハネは「イエス・キリストの黙示」(1 章1 節)を受け取り、伝えたのです(1 章11 節)。
しかしもう一つ,見落せない事実があります。
「私は,主の日に御霊に感じ,私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた」(1 章10 節)と記されている点です。
「御霊に感じ」と言うことが具体的に何を指しているにしても。「私ヨハネ」は,聖霊ご自身とかかわりを持ちながら、七つの教会を見、本書を書き送っていることを深く自覚しているのです。
この点は,4 章1,2 節を通し,さらにはっきりします。
そこでは、
「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。
『ここに上れ、この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』たちまち私は御霊に感じた。 する
と見よ。天に一つの御座があり,その御座に着いている方があり」と記されているのです。
ヨハネは、パトモスと同時に、「御霊に感じた」とある聖霊ご自身の導きを受けて、「ここに上れ」(参照11 章12 節)と提示されている場、そうです天的視点に立ち、見聞きすることを求められています。
それゆえ、パトモスと「御霊に感じて」と二つの視点から私ヨハネは見聞きしています。
またはパトモスと「御霊にあって」が深く結びつく一つの視点に立ってものごとを見ているとも言えます。

視野・何が見えるか
上記の視点に立ち見えてくるのは、一世紀末の小アジアの現実であり、教会の実態です。
しかしそれだけでないのです。
特定の時代の限定された場所の具体的な歴史と共に,全歴史,全世界が見えてくるのです。
創造から再創造までの全体です。
視野に入ってくるのは、何事であれ、その一部でなく全体。一面でなく、両面。
ヨハネ聖霊の導きを受けて、全体・万物を視野に入れている事実の一例として、
4 章11 節に記されている,讃美があります。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」

[5]聖霊ご自身の働き
ヨハネの視点。
それは聖霊ご自身の働きと切り離せません。さらにその視点から視野に入ってくる万物も聖霊ご自身のダイナミック・力動的な働きにより支えられている事実を教えられます。
新しい天と新しい地。「わたしは,すべてを新しくする」(21章5節)と宣言されているように、
「すべて」,つまり物質も新しくされる対象なのであり、聖霊ご自身の働きの広がり、その豊かさを見るのです。

ヨハネの黙示録21 章1-8 節に見るメッセージと同じことを。パウロはローマ8 章18-25 節で伝えています。
個人生活、教会生活、社会生活など、そのいずれにあっても、つねに新しく改革されつつ、希望と忍耐もって営みを継続するようにパウロは勧めています(ローマ8 章25 節)。
聖書全体を通して、多様な表現で、統一したメッセーを提示している事実を覚えながら,ヨハネの黙示録21章1-8 節のメッセージを,図式化すれば,以下のようになります。

神,万物に法・秩序,人間
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無神 万物が偶然・虚無。非人格的
父であり、主である神のご意志、人格的計画と秩序と共に聖霊ご自身の具体的原動力しての働きを、「私ヨハネ」は、小アジアの七つの教会に、そしてこの書を読む私たち一人一人に語りかけ続けてくださっているのです。
それへの応答は,宣教の神学や教会論の確立から,宇宙論聖霊論・聖霊宇宙論に及ぶ豊かな広がりを持ちます。このような課題は,人間の限界の中では,精神のバランスを崩してしまう恐れがある程のものです.
しかしその道は,本来は聖霊の実を結ぶ生活・生涯(ガラテヤ5 章22,23 節)であり,平静なものであると励まされます(オスラー博士講演集,日野原重明,仁木久恵訳,『平静の心』,医学書院)。驚くべき恵みです。そうです。実に驚くべき恵みです。