「聖書をメガネに ペテロ・ネメシェギ神父の手紙」

「聖書をメガネに ペテロ・ネメシェギ神父の手紙」

待望の書、ユンゲル・モルトマン、『わが足を広きところに』モルトマン自伝が届く
 待望の書、ユンゲル・モルトマン、『わが足を広きところに』モルトマン自伝が届きました。
 幾つもの面で制約がある中ですが、カタツムリの歩調で、味読・身読したいのです。
 著者のユンゲル・モルトマン先生と翻訳者の蓮見和男・幸枝ご夫妻については、以下の文章を書きました。沖縄滞在の25年の歩みの中で、忘れられない恵みの一つです。
敬愛する松谷好明先生がご指摘くださるように、私には三名の特別な恩師がいます(宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ「聖書・神学」考』6頁)。三人の中で、日本クリスチャンカレッジの恩師渡邊公平先生もゴードン神学院のロージャー・ニコール先生もすでに主のもとに召されました。
 しかし上智大学神学部のペテロネ・メシェギ先生は、故国ハンガリーでお元気で活躍です。数年前、文芸雑誌『修羅』に、以下の文章を投稿しました。
 その後、2011年5月、25年振りに関東に戻り、ハンガリヤから来日なさった、ペテロネ・メシェギ先生と再会する機会を与えられました。
☆ペテロ・ネメシェギ神父の手紙
宮村武夫
[1]序
 一九六○年代の後半、埼玉県寄居に在住当時、忘れがたい二人の人物との出会い。その出来事は今日まで私・宮村にとって重要な意味を持ち続けています。
 一人は、松本鶴雄さん。彼との出会いの波紋の広がりの中で、現に今、この『修羅』の原稿を記しています。
 それだけでなく、もう一人の人物がいるのです。当時上智大学神学部部長・教授であられたペテロ・ネメシェギ神父、私の生涯の恩師です。
 今にして思えば、お二人は、寄居での私の生活において一つの接点があったのでした。
前回、『修羅』に寄稿した「アンヨをもって、テテもって」で報告した通り、当時寄居高校定時制の教師であった松本さんと同僚の藤田さんや私を中心に、小さな牧師館の狭い部屋でこじんまりとした読書会を始めたこと。それがめっぽう楽しく、やがて定時制で私が英語を教えられないかと話が弾みました。しかし私が卒業した日本クリスチャン・カレッジが文部認可の大学でないため、県庁の許可が下りず、没。
 ところが最近になって、ネメシェギ神父の手紙を保管しているファイルとは別のところから「没」と絡む古い手紙類を見つけたのです。
 それは、「宮村武夫 人物証明書」と封筒に上書きされたものです。
当時私の状況を聞いて、上智大学神学部の大学院生である事実を成績表などを用いて伝え、大学の認可のない日本クリスチャンカレッジ卒の限界の壁を私に乗り越えさせようとネメシェギ先生は努力を払って下さっていたのです。
 一切に形式が優先するため、定時制高校で私が英語を教える話は早々に「没」が決定。封書は先方に手渡されることなく、私の手元に残ったわけです。
 こうして40年余を経過して、自分の「人物証明書」を私は読むことになりました。
驚きました。胸が熱くなりました。いわば形式的な公文書なのです。しかしペテロ・ネメシェギ神父の存在そのものから溢れてくる、手で書き、心で刻む愛の手紙です。
 一人の人物についての観察区分として、性格、指導力、研究心、社会性、自立性、教育職員としての適格性の6項目。その各項目に観察の内容を手短に記しておられます。
先生の明晰な言葉を読みながら、これはネメシェギ神父ご自身が体現しておられる項目内容だ。そして勿体無いことには、同じ内容を私のような者にも期待し、さらに確信しておられるではありませんか。「教育職員としての適格性 最適」。
こんな観察者に温かく観察されていた、身の幸いを今に覚えるのです。
一九六○年代の最後、埼玉寄居で、松本、ネメシェギ、宮村と三つ巴の絆が与えられていた、これは独りよがりな断定でしょうか。
 
確かに、教会でも神学校でもない普通の場で教える機会を私に与えてくれる定時制高校の授業、それは没でした。しかし後年、日本女子大学での授業の道が開かれました。日本クリスチャンカレッジでの恩師・渡邉公平先生の定年ご退職後を引き継ぐ形で、日本女子大学英文科の講座『聖書』を、1978年4月より沖縄に移住する1986年3月まで担当。聖書そのものを率直に伝達すれば、彼女たちは「尊いエバ・人間」ですから、確かにしっかり受け止め応答してくれる、毎回試験答案を読むのがなんとも喜びでした。
当時英文科の教授であった新井明先生は、以下のように記してくださっています。
「・・・それまでは英文学科の渡邊清子教授のご夫君にあたる渡邊公平牧師がその科目の担当者であられた。同牧師が定年でお辞めになるに及んで、・・・そのときに公平牧師先生の愛弟子のお方が来てくださることになったと聞いた。そのお方が宮村武夫先生であった。よかった! と思ったことであった。・・・先生は生き生きとした授業をしてくださり、学生たちに深い影響をとどめた。(学生たちの様子から、それが分かった。)ことばとしての欽定英訳聖書の面白さは当然として、それがもつ迫力を若い世代に訴えてくださった。その結果、やがては教会に通う身となる若者たちが生まれてきた。その講義は一九八五年度までつづけられた。学園にとっては恵まれた八年であった。」(宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』巻頭言)。
 学生方の幾人かとは、今でも幸な交流を続けています、その一人の方のことば。
「英文科の授業を、教育学科の私は、単位とは無関係に2年間伺いました。
先生のお話は緻密で丁寧でした。第一コリント12章の箇所で、『あの人の目にとても惹かれたという話は聞きますが、耳に惹かれたということは聞いたことがありません。』という先生の真面目な冗談に、学生たちが遠慮がちに笑っていました。
友人の一人が「先生が、『本当に神様がいる』と思っておられることは感じる」と言っていたこともあります。・・・
宮村先生と私たちの聖研の交流は、先生が女子大をお辞めになられてから現在までもずっと続いています。」
私が日本女子大で授業を担当していることを、女子大で働く知人を通し知られた松本鶴雄さんは、手紙を下さったのです。その手紙を読みながら、深い喜びを感じました。
松本、ネメシュギ、宮村三つ巴の絆のあの時点での確認と今にして思うのです。
[2]ネメシェギ神父との出会い
 神父との最初の出会い。それは、1967年10月米国留学から帰国後も大学院の学びをめぐり、なお惨めな経験をしていた頃です。
ハ−バ−トで共に学んだイエズス会のスミス神父が上智大学で学ぶよう薦めてくれていたことを思い出し、上智大学神学部で学ぶ可能性を問い合わせところ、神学部長・ペテロ・ネメシェギ先生は即刻葉書を下さったのです。
この葉書を、扉に「主において愛する兄弟、宮村さん、ペテロ・ネメシェギ」と記されている、ネメシェギ神父の名著・『神の恵みの神学』の間に挟み、40年間。今や、この葉書は、年月のみが醸し出す芳香を放っています、少なくとも私にとっては、そうです。
「お便りありがとうございました。
こちらの大学院で先生のような方が勉強なさることは出来ることでございますから、ご都合のよい時に相談にいらして下さいますようお願いいたします。
私の方の都合では、今週の金、土曜の午後こちらにいますので、お話できると思います。他の時間でもお電話下さいますと、私のあいている時間をお知らせすることができるのでございますが、よろしくお願いします。
では、お待ちいたしております。         敬具」
 
この葉書は道を開き、実を結び、私が上智大学神学部で学ぶことが出来たのです。
 少人数を対象とする授業はそれぞれ行き届いたもので興味深いものでした。
 しかしその中でもネメシェギ先生による個人指導は特別な恵みの経験でした。
二週間に一度、練馬区関町にあるイエズス会の寮にある先生の質素な部屋を訪ね、与えられた課題について私なりに思索し調べてきたことを申し上げる。じっと先生は耳、いや心を傾けながら、一言、二言応じてくださる。3年間の徹底的な一対一の個人指導は、今思い出しても至福の時でした。
 そのようなある日、初代教会をめぐる一論文を読み考察している時、
「この神学では、殉教はでません」と、温厚な先生が静かに言い切り、神学するとは何か心構えの根本を私の心の深く刻み込んでくださいました。
 
この消息を、時空を越えて、2000年、沖縄で、キリスト新聞のコラムに以下のように記しました。
「『あなたの慈しみは命にもまさる恵み、わたしの唇はあなたをほめたたえます。』(詩篇63篇4節)。
 
1997年4月29日、畏友天田繋作曲、日本二十六聖人『長崎殉教オラトリオ』全十景が、1597年の長崎での出来事を記念して、上野・石橋メモリアルホールで上演されました。その日、伊江島を一人で歩き、ハンガリーへお帰りになったネメシェギ神父の言葉を思い出していました。
  埼玉県寄居キリスト福音教会の一牧師を、『キリストにある兄弟宮村さん』とネメシェギ教授は温かく受け入れてくださり、1968年4月から3年間、上智大学神学部で学ぶ道が開かれました。二週間に一度、イエズス会の寮にある先生の部屋で、与えられた課題について考え、調べてきたことを申し上げる。それは、今思い出しても至福の経験でした。そのようなある日のこと、初代教会をめぐる一つの論文を読み、考察していたとき、『この神学では、殉教はできません』と、温厚な先生が静かに言い切られました。
  今年(2000年)六月、沖縄で開かれた第四回日本伝道会議への一つの応答として、上記のオラトリオを沖縄で上演できたらと幾人かの者が準備のための小さな一歩を踏み出したところです。時・歴史、場所・空間の隔たりを越える教会のリヤリティーを、『命こそ宝』の島の現実の中で告白する者たちの証しです。
星野富弘さんの詩への共鳴として。
  『いのちが一番大切だと
   思っていたころ
   生きるのが
苦しかった
   いのちより
大切なものが
   あると知った日
   生きているのが
   嬉しくなった』」
[3]ネメシェギ神父からの手紙
 ネメシェギ神父は、体制の変化した祖国ハンガリ−に帰国。
1986年4月、私たちは沖縄に移住。この二つのことが重なり、ネメシェギ神父のハンガリーの住所を知ることが出来ず、文通が途絶えていました。
 ところが母校開成の聖書研究会の後輩で上智大学卒であり、当時キリスト新聞社で働いていた榎本昌弘君が、ネメシェギ神父の住所を探し伝えてくれたのです。
 やがて久しぶりの手紙が、遠くハンガリーから沖縄に届きました。
「クリスマス、おめでとうございます。
 上智大学の神学部のときの私たちの出会いをこのように思い出しておられることは、本当に嬉しいことです。ずいぶん昔のことになってしまいましたが、神様の真実はかわりません。
 沖縄に一度行ったことがあり、フランシスコ会のシスタ−方のための黙想会指導をしました。よく歩き回ることも出来ましたので、その場所の美しさを心にとめることができました。
 ハンガリ−で仕事は多い。みことばを聞きたい人が、さいわい、います。共同訳聖書はまだありません。だから、私は、日本の例を言って、それを作るように人々に話しています。何とかなるように祈ってください。
 どうぞ、いつまでもお元気で。
ペテロ・ネメシェギ」
 ネメシェギ神父が、沖縄の地を歩まれた、その事実を思い巡らすだけで心満たされる。手紙の確かな手ごたえです。
 ハンガリ−と沖縄が手紙で直結されると、東京練馬のイエズス会の寮にあったネメシェギ先生の部屋で展開した至福の経験が静かなゆっくりした歩調で継続したのです。
 私の思索と論述の報告に対して、先生からの簡潔で適格な一言、二言が遠くハンガリ−の地から見るからに心温まる手紙を通して。
「主の平安
 伝道会議の記録集と聖霊論を送ってくださって 、ありがとうございました。
特に『聖霊論の展開』を興味深く読ませていただきました。
 私も、聖霊ご自身が私たちに与えられたこと、また聖霊の実(単数!!)は愛であることを、キリスト教のもっとも重要な教えであると信じています。
 先生の福音宣教を聖霊が助けて下さるように祈っています。
 2000年3月31日  宮村武夫先生  ペテロ・ネメシェギ」
2009年12月18日(金)、脳梗塞発症のため那覇市立病院に入院、その後年を越して1月13日(水)リハビリに集中するため大浜第一病院へ移ってから4月2日(金)の退院までの日々は、多くの方々の祈りと好意、各種の医療従事者のお世話を受けながら、1963年から1967年の米国留学に匹敵する深い学びのときでした。しかも短期集中の楽しくて、楽しくて仕方のない特別授業の連続。
 大浜第一病院の病室は個室で、一目見るなり書斎のようだと多くの訪問者の感想。
その病室で、以前から大切にし,時に応じて聴いていたて、ペテロ・ネメシェギ先生の二本のテープを何回も何回も繰り返し聴きました。―その場で先生が語りかけてくださっているような語り口にいちいち肯く思いで―
まさに声の手紙です。
『愛と永遠のいのち』
『愛と喜び』(聖母の騎士社)。
 
 またハンガリ−の先生に、著作集1冊目・『愛の業としての説教』を先にお送りしてありましたところ、2月下旬、お便りが病床に届きました。
[主の平安
 ひさしぶりに先生からたよりをいただき、
 りっぱな著作を送って下さり本当にありがとうございました。
 昔、上智で、先生と会うことができたことを、なつかしく思い出しています。
 主の喜びを互いに与え合うように、つとめましょう。
 お祈りのうちに
2010年2月22日
       ペテロ・ネメシェギ
     宮村武夫先生  」
 私の生涯の詩・「存在の喜び」とは、「主の喜びを互いに与え合うように、つとめ」ることにほかならないとネメシェギ先生はご自身の生活・生涯、文字通り存在を通して書き記し下さっているのです。
そして私にもこの一事に撤するように、今もやはり静かに先生は呼びかけてくださっている、アーメン。
さらに2010年9月発刊の、『神から人へ・人から神へ』をハンガリ−へお送りしところ、嬉しい手紙がネメシェギ先生から届きました。
「お手紙、ありがとうございます。
 また立派な本を送ってくださったことも、感謝いたします。
 さっそく読んでみます。
 先生の活躍ぶりは、おどろきます。
 主キリストの福音が多くの人々に伝えられるのは、嬉しい。
 ただ体を壊さないように注意してください。
  私も、おかげさまで、今年も、三つの大学で教えたり、教会でミサをしたり、お話をしたりします。もうすぐに88歳になりますが、まだ、何とか奉仕することが出来ます。
神に感謝!
お祈りのうちに。
   2010年10月27日
       ペテロ・ネメシェギ
宮村武夫様・君代様
PS。この花(カードの写真)は、「雪の花」と言います。春になると、早く、雪の中で咲くからです。」
[4]いのちの結び、手紙を貫き
2010年4月、大浜第一病院退院後、喜びカタツムリと自覚し自称しています。
生かされている場、いつでもどこでも、そこが「存在の喜び」の現場なのだ。それゆえ埼玉の松本さんやハンガリ−のネメシェギ神父の現場ともいのちの絆で堅く結ばれている、竹の子が根で互いに結びついているように。そのようにさえ考えているのです。
そうです。竹の子の根の結びつきの事実とその意味について、1950年代ネメシェギ先生が来日当初の出来事からの洞察・竹の子神学に新たに学ぶのです。
ネメシェギ神父は、このようにことばを紡いでおられます。
「わたし(ネメシェギ神父)がロ−マから日本へきたのちの最初の春のことであった。家の前の庭を毎日散歩したとき、非常に驚かされたことがあった。春の土から、何か円錐形の植物が頭をもたげていた。そして驚くべき早さでたちまち生長し、二週間ほどの間に人間の背たけの二倍もあるような美しい高い木に変わってしまった。いうまでもなく、わたしがその春初めてみたのは竹の生まれであった。わたしは竹の美しさ、しなやかさ、しかもたくみにできた姿を見て真に感激したのである。このどこにでもあるたけのこを科学者が分析すれば、水素とか、炭素とか、また、別の元素もあるであろう。そのさまざまな元素が幾つ存在するのかわたしにはわからないが、科学的に分析することは可能であろう。しかし、顕微鏡でも見ることのできないもう一つの要素が竹の内には存在するのである。それはいのちである。このいのちはどこから来たのだろうか。それはいうまでもなく、去年から中心に生えていた古い竹からきたものである。去年から生きていた親竹から、人間の目に見えないように地下を通り、根が四方へ伸び、そのいのちを伝えたのである。土を自分へと同化するいのちを与えながら、去年から立っていた竹が自分に似たたくさんの子どもをつくったのである。
 いうまでもなく、たけのこを生む一本の親竹は、われわれの主イエズズ・キリストの象徴としてわたしの目に映ったのである。かれからこそ目に見えない方法でわれわれに新しい生命、われわれをキリスト化する生命が伝わってくるのである。」(『神の恵みの神学』、477,478頁)。
 1960年代後半の寄居において確かに。
そして2010年の今、埼玉、ハンガリー、沖縄と時空の隔たりを越えていのちの結びのリヤリティ−。静かな喜び満たされるのです。虚無のいざないの中にあっても。
しかも私たちの地上での死の事実によって、地上で味わったいのちの交わりは、切断すること、消滅することなく、完成へ向かう。この希望のゆえ、どのような忍耐も。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロー人への手紙15章13節)。