1955年3月22日から2017年3月22日へ、そしてこれから その3

1955年3月22日から2017年3月22日へ、そしてこれから その3
開成高校で、キリスト信仰の歩みを踏み出した中で、吉枝隆邦兄との出会い、また彼と一緒に始めた中学生のための聖書研究会は、私たちの生涯にとって、深い意味がありました。
 吉枝兄は、私たちが一緒にいる時、「高校は同期、神学校は、1年後輩」と自己紹介したものでした。その後、脳梗塞は10年後輩が加わりました。
 とにかく吉枝君の存在は、私にとり常に励ましです。例えば、以下のような著作集巻頭言を書いてくれました。

☆「徹底した聖霊信仰」・「徹底した聖書信仰」の背景にある歩み
吉枝隆邦
 
 「宮村武夫君と僕は開成高校の同期生で、60年近くの主にある友情を結んでいます。
僕は数人の友達と一緒に学内で聖書研究会を組織していましたが、彼は高1で救われたのに僕らとは関係がありませんでした。
教室で弁当を食べる前に感謝の祈りをしていると友達が「何をしているんだよ」と聞くので「神さまに食前の感謝をしてるんだよ」と言うと、「ケチくせえなあ。二組の宮村なんか大声でやってるぜ」と言われて、大声で感謝の祈りをするなんてどういう信仰の奴なんだろうと、不審に思ったのが最初のふれあいです。その時思ったとおり彼は教えられたことを人目をはばからずに実行する人でした。
 
 高校3年の春に掲示板に海外の神 癒伝道者の記録映画を上映するポスターが張り出されていてびっくりしまいました。僕たち聖書研究会の存在を無視している、貼り出し責任者の宮村ってのを呼び出そう、ということになって彼と話し合った結果、彼も了解して今後は協力して学内の伝道をやっていこうということになりました。高3秋の文化祭では力を合わせて心に残るほどの証し伝道ができました。

 僕は高校卒業と同時に日本クリスチャン・カレッヂに進学しましたが、宮村君は恩師万代恒雄先生が教団を離れて四国の松山で開拓伝道を始めたのを手伝うため3学期から行ってしまいました。卒業式に帰ってきてすぐに松山へとんぼ返り、夏に帰京してHi-B.A. キャンプのカンセラー奉仕を僕と一緒にやりました。翌年4月から彼は日本クリスチャン・カレッヂに入学してきました。実地に伝道してみて勉強が必要だとわかったからだそうです。
 その時の卒業論文が『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』として著作集第6巻に載せられています。僕の卒業論文とは全く行き方の違ったものでした。
 
 彼自身言っているように、「徹底した聖霊信仰」はその背景から形作られたものでしょうが、後の学びによって消え去りもせず、「徹底した聖書信仰」がそこに加わって無敵のものになるには日本クリスチャン・カレッヂ卒業後のアメリカ留学で、複数の神学校及び日本のカトリックの神学校での学びと研鑽が役に立っているのでしょう。
 
 60年近い交わりを通して宮村武夫君の特長を書き留めると……
(1)人との出会いをいつまでも大切にする人です。
高3の時、聖書研究会の指導者とは別に、毎週賛美歌指導に来てくださった山田 亘わたる先生(西東京キリスト教会牧師)と今も交わりがあり教会の奉仕に招かれているのも一つの実例です。そればかりでなく一度会った方を忘れないで交わりを継続している例がたくさんあります。
 救いに導かれた母教会の現在の吉山宏牧師(小岩栄光キリスト教会)も彼をこの教会出身の最初の牧師として紹介して下さり奉仕もさせてくださっています。
 
(2)人の言い伝えに捕らわれずに意表をつくような名前の神学を発表する神学者です。いわく「台風の神学」、「なりゆきの神学」、「聖書で沖縄を、沖縄で聖書を」などありますが、さらに挙げたらきりがないほどです。You Tube で見聞きできる「童謡説教」は一度視聴してみてください。

(3)絶えず前進していきながら前のものとは断絶しないし、むしろそれを土台としてふくらみを増して行く人です。聖書学校で教えていた時の教え子たちが著作集をと願ってこの著作集の出版を実現させたのも教え子に対する彼の変わらない関心と愛に対する応答と見るべきでしょう。
彼が小学校4年生から高校時代まで過ごした、東京都江戸川区小岩に最近移住したのも同じ心です。

 このような点を理解して著作集を読めば、取り上げられている主題がなぜそうなのかが、もっと良くわかるでしょう。多くの方に読んでもらいたいと願っています。
日本同盟基督教団 赤羽聖書教会協力牧師、Hi-B.A. 責任役員)
  二〇一四年四月」

★吉枝兄とと一緒に始めた中学生のための聖書研究会は、私たちの生涯にとって、深い意味がありました。次回に報告。