聖歌に見る笹尾鐵三郎の信仰と神学

聖歌に見る笹尾鐵三郎の信仰と神学

☆毎朝、笹尾先生の作詞の聖歌を、その日の編曲?で賛美しています。
聖書解釈の授業では、聖書解釈の歴史を重視しました。特に日本の教会の聖書解釈の歴史を特に重視して、笹尾鉄三郎、母校開成の先輩・沢崎賢三や中村獅雄などの先達の中から、年度ごとに一人を選び紹介しました。

聖歌に見る笹尾鐵三郎の信仰と神学
[一]序
(1)何故 今 笹尾鐵三郎先生か
 「こういうわけで,雲のように私たちを取り巻いているのですから,私たちも,いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて,私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようでありませんか」
ヘブル人への手紙12章1節
 私たちキリスト者・教会の歩みは,恵みの歴史を忘れず,先達の歩みを通して教えられて行くものです(ヘブル11章)。しかしそれだけでなく,恵みの歴史を担った先達に,今,ここでの私たちの信仰の歩み・戦いを見られているとの意識と自覚を持つのです。今,ここでの私たちに委ねられている特権と責任を悟り,喜び答えて行く,それが私たちの歩みです。私たちの生活であり,生涯です。私たちの先達の代表的なお一人,笹尾鐵三郎先生の信仰と神学を知ることは,私たちの信仰の歩みにとって大きな助けとなると期待します。

(2)聖歌の言葉・内容の味わい
 歌詞の内容を味わい,その内に含まれているメセージに聞きつつ,信仰の告白としての賛美をささげる恵みの特権を用いる,これこそ私たちの礼拝の喜びの一つです。
 聖歌の中に数多く含まれ,愛唱されている笹尾鐵三郎先生作詞のものをいかに味わい賛美するかは,私たちの聖歌の歌い方と深く関係すると思われます。

[二]笹尾鐵三郎先生の略歴と作詞の聖歌
(1)笹尾鐵三郎先生の略歴
 1868年(明治元年)三重県津市で誕生
 1886年(明治19年)津中学校卒業,慶応義塾に入学。
1888年(明治21年)5月貿易商を志し渡米,サンノゼのパシフィック商科    大学に入学。同年末,下宿先の牧師の母であった,ダージン老夫    人に導かれ入信。
 1891年(明治24年)大学中退,河辺貞吉師,秋山由五郎師と協力し,伝道。 1894年(明治27年)帰国,河辺師らと共に,「小さき群」をつくり,東京    市内各区を伝道。
 1896年(明治29年)バークレー・バックストン師(松江)の塾に行き修養。 1897年(明治30年)森山秀子(松江)と結婚。
 1899年(明治32年)淡路伝道
1901年(明治34年)上京,中田重治師の中央福音伝道館と聖書学院の教師    に,バックストン師の推薦で赴任。その後12年間,教師また院長    として後進の指導に当たる。
1912年(明治45年)内村鑑三師の娘ルツ子の信仰の教導する。
 1913年(大正2年)聖書学院を辞して,巡回伝道者となる。
 1914年(大正3年)12月30日,数えの47歳で召天。

(2)聖歌に含まれている笹尾鐵三郎師作詞の聖歌
   186番 うきのやみのよも      1897年作詞
   206番 しみもとがも        1897年作詞
   219番 目をあげて見よや      1897年作詞
   253番 めぐみあふるる       1897年作詞
   280番 わがため十字架       1897年作詞
   292番 きょうまでまもられ     1897年作詞
   394番 ひとりの御子を       1897年作詞
   445番 うき世の友         1897年作詞
   458番 すみよりもくろき心なれど  1897年作詞
   481番 ほむべきかな        1897年作詞
   502番 エホバはまことの牧者    1897年作詞
   722番 イェスよ十字架に      1900年作詞
   731番 ちよろずのたみよ      1900年作詞
   732番 まもなく主イェスは     1900年作詞
   733番 ゲッセマネにふす      1900年作詞

[三]206番 『しみもとがも』の味わい
(1)全体の構造
    主イエス・キリストの十字架に現されている恵みの事実
    主イエス・キリストの救いの御業を,「わがため」と,今,ここ    に生かされている自分自身への恵みとしてしっかり受け止める。    これは,聖霊ご自身の恵みの働きによる。
    参照 ヨハネ14章26節,15章26節
        コリント12章3節
    主イエス・キリストの十字架,復活,そして再臨に堅く立つ。
    主イエス・キリストの再臨を待ち望む者として,十字架を担いつ    つ進む日々・人生。

(2)各節の味わい
    主イエス・キリストは,どなたかをはっきりと知り,告白する。    主イエス・キリストの救いの御業を「わがため」と受け止める。    主イエス・キリストの救いの御業の理解,
    参照 ガラテヤ3章13節
    主イエス・キリストの再臨の約束と希望
    キリスト者・教会の生活・生涯,十字架と喜び
◆ここには,神の恵みの一面や一部でなく,両面,全体を受け止め,答えて生きる姿勢を見ます。何故このようなことが現実でありえたのでしょうか。それは,聖書を全体として,いつも読み続けたからに違いありません。この点を十分教えられたいのです。

[四]結び 
 聖書の教えは、教えに答えてどのように生きるかと切り離して示されていません。聖歌206番に鮮明に描き出されている笹尾鐵三郎先生の信仰と神学はこの事実を指し示しています。今、ここで、聖書が示す主イエス・キリストの再臨の希望に堅く立ち,どのように生きるかを抜きに、神の恵みを受けることは出来ないのです。聖歌206番に示されているキリスト者・教会の生活・生涯には,少なくとも以下の特徴を含んでいます。
(1)個人の終末と世界(宇宙)の終末との正しい関係

(2)主日から主日
  目標を目指す生き方。
  参照創世記28:10
  〜から自由,〜へ向けて自由
  参照創世記12章1節以下 旅人アブラハムのごとくに
  レビ記23章から25章に見る礼拝の生活のリズム
  地域教会の主日礼拝の大切さ

(3)10年から10年へ
  ヨハネ黙示録の大切さ
 ヨハネ黙示録1章8節
 「神である主,常にいまし,昔いまし,後に来られる方,万物の支配   者がこう言われる。『わたしはアルファであり,オメガである。』」  10年から
  10年へ
  1コリント15章が大切
  58節の勧め、慰め
   一日一生
◆今後の課題、『笹尾鐵三郎全集』(全五巻)の味読。その中の一つ一つの精読、例えば、「ヘブル書講義」。
 それに基づくテーマの研究、例えば、
『笹尾鐵三郎に見る日々の理解』など。
聖歌206の外、
聖歌253 4番 「むかしもいまもかわりなき主は」    
聖歌280 3番 「ひび主をまつみはうたわざらめや」
聖歌292 1番 「きょうまでまもられきたりしわがみ」
      3番 「主の日ぞいよいよまじかにせまる」
聖歌458 3番 「ひびおのれをすて十字架をとり」
聖歌502 おりかえし「みむねのまにまにひびしたがいつかなん」
聖歌722 3番 「十字架のなやみ日々おぼえつ」