『丸太の笑いから喜びカタツムリの歩みへ』

  1. 『丸太の笑いから喜びカタツムリの歩みへ』

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
しかし今は、あなたのことばを守ります。」

「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
あなたの御口のおしえは、私にとって、
幾千の金銀にもまさるものです。」
詩篇119篇67、71、72節)

[1]序 
2009年12月18日(金)、脳梗塞発症のため沖縄県那覇市立病院に入院、明けて1月13日(水)、リハビリに集中するため大浜第一病院へ転院後100日間に及ぶ入院生活。
多くの方々の祈りと好意に支えられ、4月4日のイ−スタ−直前4月2日に、退院できました。
この脳梗塞発症・入院の経験は、1963年から1967年若き日のアメリカ・ニュ−イングランドにおける留学生活の日々に匹敵する、人間・私はなにかを悟る深い学びのときであり、しかも短期集中の楽しくて、楽しくて仕方がない毎日でした。

 あの12月18日(金)、夕方那覇市の職場キリスト教書店ライフセンタ−から帰ってきた妻・君代は、私の様子が普通ではないのに気づきました。しかし私は一晩寝れば大丈夫と威張っていたのです。自分の母親が脳梗塞であった経験を持つ君代は、脅したり、賺(すか)したりして、そんな私をようやくの思いで救急病院へ連れて行ってくれたのです。
病院では、直ぐに診断がくだり治療開始。しかし一晩経過した時点では、左半身不随、自分がまさに丸太となった感じでベットに横たわっていました。
その時、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」(旧約聖書詩篇119篇67節)との詩人の告白は私の告白ともなり、それで大浜第一病院に移った直後から、アウグスティヌスの『告白』をそろそろとゆっくりでしたが再読し始めました。
またそんなどん底の状態の中で、からだをめぐる思索、医療従事者の方々とのふとしたきっかけでの出会い・手短な対話、医療のあり方についての考察など貴重な経験をする第一歩を踏み出したのです。

丸太の笑い
大浜第一病院では、一日3時間、手、足、言語のリハビリの連続でした。
日々、楽しみながらリハビリを続ける中で、私のうちに一つの事実が生じたのです。
からだの奥から笑いが満ち溢れてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、夜となく昼となく「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか緩んでしまったのではないかと君代が案ずるほどに。
そんな日々の中で、いつものように朝、旧約聖書詩篇を読んでいる最中、そうです、その126篇1−3節を読んだとき、「これだ!」と心に受けとめたのです。
「主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」

リハビリの一つは、言語治療です。若い女性治療者の熱心な指導のもと舌の動きに集中しながら発声訓練です。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」(詩篇119篇2節)とは文字通り私の実感でもありました。
誤解を恐れないで言えば、脳梗塞発症後のリハビリの経験は、きわめて小さなスケールではあっても、旧約時代イスラエルの民がバビロン捕囚から解き放れた時の喜びに通ずる経験でした。あれから3年後の今も解き放ちの喜びをますます生活の基底に覚えるのです。

[2]脳梗塞ビフォー
丸太の笑いは、脳梗塞前の生活を回顧すると、脳梗塞ビフォ−・アフタ−を際立たせる
しるしです。
 1986年4月東京青梅から沖縄に移住して数年後私は躁鬱を発症、その中で首里福音教会牧師と沖縄聖書神学校教師の働き、また執筆活動を神の恵みに支えられ続けていました。
ところが私の躁鬱の状態がかなり重くなった頃、東京から沖縄に移住なさた精神科医中嶋聡みどりご夫妻が、当時八王子キリスト教会牧師であった荒井先生の紹介で首里福音教会に出席するようになられたのです。
私たち夫婦は中嶋医師と個人的に面談し、先生が勤務する病院で診察を受ける決心をしました。しかし実際には心理的な壁を君代の支えでやっとの思いで乗り越えて、診察を受けたのです。こうして中嶋兄は、心から信頼する私の主治医に。

その頃、私が直面した課題は、ほぼ定まったパタ−ンを取っていました。
普通の状態の生活の中で無理や多忙を苦にしない気分の高まりが続き疲労が蓄積しきる時期に、ふとした切っ掛けで、なにかの事柄について罪意識を持ち始めるとその原因となったそれ以前の過去のことを思い出して、さらにより強い罪意識を持つ。そのようにして青年時代、少年時代、ついには子供時代へと連鎖反応のように原因結果・因果応報の縛りが自分の存在そのものまで迫るのです。
 旧約聖書に登場するヨナのことば、
「私は生きているより死んだほうがましですから。」(ヨナ4章3、9節)や、
さらにヨブの生まれた日についてのことば、
「なぜ、私は、胎から出たとき、
  死ななかったのか。
  なぜ、私は、生まれ出たとき、
  息絶えなかったのか。」にさえ行き着くほどでした。
そんな状態が続く中、中嶋兄の勤務する病院に数年断続的に通っていました。

やがて中嶋兄と私の関係に一つの節目が訪れました。
なかまクリニックを中嶋兄が開院することになったのです。その出発にあたって、その後私たちの心に残り続ける、ことばのやり取りをしました。
それは、ある自ら命を絶った青年の納骨式のために、首里福音教会の教会墓地の前に集まっていた際のことでした。
「なかまクリニック、そこで中嶋先生は先生の牧会をなさいます。
 私は、その牧場の羊の一頭・一人であることを、誇りに思っています。」と申し上げたのです。このことばは、ことのほか、新しい出発をなさった中嶋兄にとり励ましになったそうです。私も、以前より定期的に通院するようになりました。

 もう一つの節目は、二人の著書をめぐるものです。
2007年、中嶋兄は、『ブルマ―はなぜ消えたのか』(春風社)と、ちょっと風変わりな題名の本を出版したのです。
その本の「おわりに」と題する文において、中嶋兄は記しています。
「・・・関西学院大学社会学部教授・宮原浩二郎氏には、社会学の立場から諸々の点についてご教示いただいた。またとくに第四章「「性同一性障害」をめぐって」の執筆にあたっては、首里福音教会名誉牧師・宮村武夫氏より貴重なご教示をいただいた。両氏に深く感謝する。」
 宮村が何を教示したか、上記の文の直前で中嶋兄は示唆しています。
「・・・また『性同一性障害』は、聖書的立場、つまり聖書を誤りのない規範と認める立場から論述している。これはクリスチャン以外の人には共有されない立場だと思うが、この立場を含めての主張が私の論旨なので、それを共有しない方にはその立場を批判的に読んでいただければいいと考えた」とあります。同書の書評を、地元の新聞・琉球新報に載せて頂きました。
そうです。「聖書的立場、つまり聖書を誤りのない規範と認める立場」こそ、当時首里福音教会で、毎週の主日礼拝の宣教を中心に宮村が中嶋兄に伝達し、中嶋兄がしっかりと受け止めた私たちに共通の恵みの基盤です。
それは、創造者の説明書である聖書を眼鏡(めがね)として、創造された万物、当然人間・私を直視するのです。沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む道です。

 また私の著書・『愛の業としての説教』(2009、ヨベル)の帯に書いた推薦文で、私なりの理解と主張の要点を中嶋聡兄は、以下のように的確に書いてくださいました。
「宮村先生は首里福音教会牧師時代、私たち教会員に、『持ち場立場でのそれぞれの活動が牧会である』と言われました。みことばに堅く立ち、それぞれの現場を大切にし、現実現場に即してものを考えようとする姿勢です。
 ご自身の持ち場・沖縄を人一倍愛しつつ、曖昧な妥協を嫌い、先入観にとらわれずに社会や歴史を判断する強さをお持ちです。そんな先生の著作集に心から期待しています。」
中嶋兄は、なかまクリニック院長で私の主治医。また私が牧師であった首里福音教会の教会員であり役員。何よりも神の御前における、人間と人間の20年以上にわたる交流を重ねてきた「なかま」です。
その中嶋精神科医師が、あの「ウフフ、ウフフ」以降、それまで服用していた欝のための薬を用いる必要がないと診断、躁のためのみを服用するようになり、今日に至っているのです。

[3] 脳梗塞アフター
(1)入院中、恵みの人間関係幾重にも
脳梗塞発症から退院までの3箇月間、病院のスタッフ一同をはじめ実に多くの方々との交わりの中に支え守られてきた事実を覚え、心より感謝しています。人間と人間の出会いとその深まりは、実に様々で幾重にも重なる豊かなものでした。
まず祈り。処々各所の方々の祈りが一身に注がれ、
「信仰による祈りは、病む人を回復させます」(ヤコブ5章15節)との約束の成就を経験させて頂きました。
小さな携帯電話も良き道具となりました。これを用いて、大きく広がる様々な地域の方々と会話を交わし祈りを合わせ、恵みの波紋の広がりを味わったのです。半月で4万と余りの急激な使用の増加で、電話局が案じて連絡をくれたほどでした。結局割引料金があり、君代は助かったのですが。
手紙・メール。左手には麻痺が残りましたが、右手は自由に用いることができ、幸いでした。時間は今までよりはるかにかかります。しかし彫刻刀で文字を刻むようにして手紙を書き続けることができたのは、やはり小さくない恵みでした。さらに制約のある中で、メ−ルもそれなりに利用できました。
 近くから遠くからの見舞い客の来訪。12月18日(金)入院直後、多忙な中駆け付け祈ってくださった、那覇バプテスト教会の国吉先生をはじめ、多くの方々が訪問くださり、祈ってくださいました。
特に大浜第一病院ではほとんどの病室が個室でしたので、訪問くださった方々と落ち着いた対話を重ねることができ、訪問くださった方も訪問を受けた私も周囲を気にすることなく、ともども心満たされたのです。
2月には、次弟義男夫妻と長女の美喜子が来沖、東京深川の実家から遠く離れた沖縄の地でゆっくりした家族の交わりのときを与えられ、幸いでした。
3月には透析を続けていた妹嶋崎恵美子が娘二人に守られて東京から訪問してくれました。その妹は、昨年12月17日(土)キリストのもとに召され、弟と兄牧師二人の司式で前夜式と告別式を執り行いました。
多くの方々から心のこもった見舞を受け励まされ支えられました。様々な苦悩の現実を承知しながら、なお病室は、笑い声が絶えず、まさに具体的な深さと広がりを豊かに含むコイノニア・交わり(Ⅱコリント8章1−15節)でした。

さらに入院中の二つの集まりを忘れることができません。
一つは、3月5日(金)午後2時、大浜第一病院のレストラン予約席で幸いな読書会を開くことができたのです。
私の主治医伊志嶺真達医師は、毎朝のように病室を訪問くださり、時間的制約の中実に心満たされる交流を重ねました。そうした中で読書会のため会場をアレンジしてくださったのです。出版されて間もない、宮村武夫著作集Ⅰ『愛の業としての説教』に含まれている「聖霊論の展開」を中心にした読書会で、沖縄の社会に生きる多様な背景を持つ11名の方が集いました。入院中病院のレストランで。
3月22日(月)、うるま市の石川福音教会で、重元清牧師の真実の表現として、「沖縄で、ヨハネに学ぶ」(ヨハネ14章15−117節)とのタイトルで、学びの会。
これは、入院中の外出の形で実行でき、やはり特別な喜びでした。

(2)人間・私・からだの三位一体なる神による支え
脳梗塞発症後100日余の入院中、吉嶺作業療法士による入魂のリハビリの積み重ねで左手の指一本が発症後初めて1ミリ動いた瞬間、自分はからだ・からだとしての私を徹底的に自覚したのです。
同時に、からだ・人間・私は、まさに人格的存在。そして永遠の愛の交わりである三位一体なる神こそ、人格的存在人間・私の根源的な支えと確信は一段と深まりました。
「存在の喜び」(宮村武夫著作7『存在の喜び』)とは、徹頭徹尾からだである人格的存在としての人間・私に注がれ溢れる喜び。この「存在の喜び」を、不自由な左手・指や杖を用いて喜びカタツムリの歩みをなしながら、しみじみ味わい知りました。
そして喜びの応答です。永遠の愛の交わり・三位一体なる神こそ、まさに人格的存在である人間・私の根拠である事実を、ヨハネ福音書からの説教・宣教において展開できればと願い、入院中の読書会また退院直後の主日礼拝で小さい一歩を踏み出しました。
さらには、医療の現場や医学教育における、三位一体論的根拠付けを展開できないか思い巡らしを始めたのです。
たしかに自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、類似関係があります。故障車の各部品を冷静に客観的に検討しながら車全体の修理がなされ正常な車として回復する。病院における患者に対しても、同じく冷静さと客観性が求められるのは確かです。
 しかし同時に、自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、明確な区別性も、当然ながら認める必要が絶対あります。
ところが現実には、この当然なこと、絶対必要なことが軽視されたり、見失われたりしていないか。要の一つは、医学教育のあり方であり、この点は、私なりに関わり見聞きして来た神学教育に対する私の不安と不満に相通ずるのではないか判断しています。

[4]喜びカタツムリの歩み。
退院(4月2日)の日取りが定まった頃でした。あるときから、天才バカボンのパパの言葉が頭に浮かび、聖書全体のメッセージを込めて、
「それでいいのだ!」と力を込めて発言するようになったのです。
おかしな話です。子供たちが小さい頃、テレビであの漫画の番組を見ている時は、苦りきった態度で私はいたのですから。
天才バカボンのパパにあきれる来客もおられました。
しかしよくしたもので、「それでいいのだ!」の一声に励まされたと喜んで病室を後になさる方が結構多かったのです。
 
4月7日退院後の生活の中で、基本的な自覚・自己イメージがますますはっきりしてきました。「喜びカタツムリ」です。脳梗塞発症当初の丸太と同様に、どのような経過でとは説明できないものの、気付いたときは、自分の内に確かなイメージとして定着していたのです。

喜びカタツムリの歩み、ですから速さを競わない。勝った負けたの話ではない。

喜びカタツムリの歩み、ですから君代の言うように前進あるのみ。過去に縛られない。

喜びカタツムリの歩み、ですから壁をよじ登り、乗り越える。必ず直面する死の壁も。

マルコの福音書8章22−25節
「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
エスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて『何か見えるか』と聞かれた。
すると彼は、見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます』と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」

脳梗塞ビフォ−・アフタ−、それは、「人を見」また「人となるため」ための歩み。
よりはっきり「人を見」また「人となる」、それが、3年間、そして今後の喜びカタツムリの歩み、二人三脚の歩み。