《 講 演 》「聖書をメガネに、童謡やいろはガルタを見れば」   その1

《 講 演 》
「聖書をメガネに、童謡やいろはガルタを見れば」
2014年3月31日
青梅月曜聖書を読む会
宮村武夫
[1] 序
おはようございます。懐かしい方々のお顔を見ることができうれしいです。
 1970年4月1日から1986年3月31日まで、私は青梅キリスト教会の牧師でした。それで自動的に、もみの木幼児園の園長となり、ちょうど30才の時から40代の半ばまで生活を送りました。

[2] 沖縄へ
(1)「行くところがなくて」
1986年3月の沖縄移住をめぐり、「沖縄へ何か大きな目標があるのですか」とか、「神さまから示されて行くのですか」と聞かれて、戸惑いました。
  私どもは行くところがなくて沖縄へ行ったのが本当の話です。しかし、そう言っても、「へぇ−、そんなことないでしょ」と本気にして下さらない。
神学教育に専心したいと決断し、2年、3年と準備を重ねて後ろの橋を切っていたわけです。ところが、ある方の思いもかけない行為で一時的に進むべき道が閉じられ、前に進むことも、後ろに戻ることもできない。
その時です、「私たち、どうしたらいいの」と、結婚してから初めて君代が涙を流したのです。その状況の中で、沖縄へ導かれたのです。だから、行くところがなくて沖縄へ行ったのです。
              
(2)躁鬱に
確かに行くところがなくて行ったのですけれども、その沖縄に25年滞在したのです。青梅での16年よりも年近く長いわけです。その期間、いろいろなことを教えられました、そうです、沖縄から離れた今でも教えられ続けています。
「沖縄は終の棲家だ」と、よく君代は言っていました。その沖縄で、2年目と比較的短期間に会堂建設の恵みに与り、その中で躁鬱、それもかなり厳しい躁鬱になりました。当時、一般的には、躁鬱は隠す傾向がありました。特に牧師ですから、「牧師なのに躁鬱になるの」と、いい証にならないとの理解が普通でした。
ところが首里福音教会の教会員、そんなに多くはなかったのです。―それでも最終的には50〜60人―、その半分ぐらいは直接間接的に医療従事者。私の主治医・中嶋先生は優れた精神科の医師で、私の説教を最も深く聴いてくれていました。彼以外にも精神科の医療従事者が何人も。それで君代が私の様子に気付くか気が付かない間に、「先生、始まったんじゃない?」と君代に。ですから隠すとかなんとかの話ではない。みんな知っている。
私の説教は普通で30分〜40分、ところが躁の時は1時間でも、それなのに鬱の時になると15分間、20分がもうやっとなのです。
私は長年レジメを配布した上で、それを見ないで説教をし続けていました。ところが欝の症状の時は、レジメを読むのがようやく―しかも上なんか向けないで下ばかり向いたまま読んで―だいたい15分で終わる。ところがおっとどっこいで、そんな時に限って、「今日のメッセージ、本当に良かった」と、真実な声を聞くのです。そうです、いろいろなことを経験しました。

(3)脳梗塞発症
すっかり調子が良い期間がかなり続き、「躁鬱、治ったみたい」と私が言っても、中嶋先生は、「先生、一生続きますよ」と、冷静に釘を刺して下さっていました。かくして躁鬱の中で、説教を続け、牧会をなし、沖縄聖書神学校で教え執筆を重ねていました。
説教については、ただ1度、主日礼拝を休みました。
それは。協力宣教師だったリーズナー先生ご夫妻が、私の状態を見かねて、「先生、お願いだから休んで」と、代わって説教して下さり、私は一番前の席に座り聴き入ったのです。

こうした月から月、年から年を重ねている中で脳梗塞脳梗塞は、ビフォー・アフターと、明確な節目になる、私たちの人生にとって恵みの出来事でした。
2009年12月18日脳梗塞発症、その後3箇月の入院生活が毎日が楽しくて、楽しくて。確かに若い時に4年間留学した期間は、私の人生にとって非常に大きな意味がありました。それに対して、脳梗塞は、短期集中留学としての重みを、私たちの生活と生涯に与え続けています。

そうした入院生活が1個月前後経過した頃、面白い症状が起こりました。
確かに躁だけの人もあるし鬱だけの人もあるようです。私の場合は躁と鬱の症状が代わりばんこに出てくるのです。
ですから躁になると夜もほとんど寝ないでどんどん仕事をしてしまうので、これを抑える薬と・・・。
鬱になると「君代と結婚したのはわたしの若気の至りだった」とか、過去のことをしつこく考え出す。さらに「5才の時、母親にあのようなことを言ったのは・・・」と、古い過去にどんどん戻って行く。
その行き着く先は、―自分が存在した(生まれた)ことが、すべての原因だと追い込んで、生まれた尊さを否定―君代がお使いに行くのにも、帰ったらどうなっているか危惧するほど突き詰めてしまう。
「それは病気だ」と言われると、私は「そうじゃないんだ、これは罪の問題であって、罪の原因を考えると・・・」。このような状態になると始末に負えないわけです。ですからとにかく少しでも気分を上げる薬を飲まなければ・・・だから抑えると上げると両方の薬を飲んでいたのです。
しかし入院中に鬱の状態が無くなって、躁の方だけが残る。その病院には精神科がないから、いつもかかりつけの「仲間クリニック」(医療従事者と患者は仲間だとの確信から命名)に行くようにとの主治医の指示に従い、中嶋先生の診察を受け、今までのように鬱の薬を投与する必要がないと判断に従い、躁を抑える薬だけに。
そうしている中でも、とにかく「ウフフ、ウフフ」と、嬉しさが自然に込み上げて来て、夜なんか困るのです。夜勤の看護婦さんが病室を懐中電灯で見回る時に、「ウフフ、ウフフ」とベットの中で笑っていたのを照らしたら、とうとうおかしくなったと思われるのではないかと案ずるほどでした。
ある朝、聖書を読んでいて、バビロン捕囚のイスラエルの民が解き放たれたとき、「舌に主が喜びをおいてくださった(詩篇126:2)」との表現を読み、「これだ」と直感しました。
私も鬱・自分の罪意識に捕らわれていた、その捕らわれの事実と共に、「喜びを舌の上に」の事実も確かだ。そうです、躁鬱の鬱がなくなった一面も確かにあるけれども、ただ単にそれだけではない。聖霊ご自身が深い喜びを我々の存在の中に注いでくださっている事実。それはもみの木の時代から深く教えられてきた、「存在の喜び」と深く結びついているのは確かです。
主が我々に喜びを与えてくれる、解き放ち(解放)の喜びを。

(4)沖縄で聖書を読む
以上申し上げてきたことは、行くところがなくして行った沖縄で経験したことなのです。
アメリカから日本に帰国するときも、同様な経験をしました。
「こんなに良い環境ではないか、ここで聖書の勉強を続け、学びを深めれば。なぜ今、日本に帰るのか」と。それは好意・善意からの助言です。 しかし私たちは、埼玉県の寄居に帰ったのです。寄居で聖書を読み、寄居で聖書を伝えることを選んだのです。
アメリカで聖書を読み続けて行く、それは貴重なことであると私なりに分かりました。けれども聖書を日本で読むことは、私にとっては、「一寸の虫にも五分の魂」的課題であったのです。それを青梅や首里の教会において求めたのです。その課題を礼拝と神学教育機関で教え続け担ったのです。

(5)聖書で沖縄を読む
沖縄で聖書を読む、ところが程無くして、「沖縄で聖書を読む」課題を自覚するようになりました。
それは何かと言えば、「聖書の神さまが沖縄の神」と表現・理解したいのです。聖書を成立させ、聖書の歴史を導いたお方が、沖縄を存在させ、沖縄の歴史を導き、沖縄に係わり関与しているとの理解です。
沖縄で読んでいる聖書の神が、沖縄の歴史や現実にどのように関与しているか、神さまの言い分から沖縄の歴史、沖縄の現実、沖縄の苦しみ、沖縄の全てを見て行く。沖縄で聖書を読むとは、沖縄で読んでいる聖書の神が、沖縄の歴史に、沖縄の現実にどのように関与しているかを見抜いて行く。今私が用いている表現を用いれば、聖書をメガネに沖縄を見る営みです。

(6)聖書をメガネに
「聖書をメガネに沖縄を見る」と言う時、二つの中心点があります。
① 一つは、メガネが必要だとの自覚の重要性です。
自分の視力、自分の認識、もっと言えば見分ける営みの中心である自分自身の理性、さらにもっとはっきり言えば、自分自身に問題があると認めなければ、メガネをかける必要に気付かない。
聖書をメガネにという時には、人間の理性や人間の判断・・・もっといえば「私が罪人だ」「神さまに創られた本来の道からずれている」との自覚が不可欠、これが根本の一つです。

② しかしもう、一つの根本。
確かに私はずれており、問題であるけれども、ずれているからもう駄目だ、罪人だから「もう、ほっとけ」ではない。
罪を犯し、ずれた私を本元へと回復へと導いて下さるお方の救いの御業。今の私の言葉で言えば、忍耐をもってリハビリをなくしてくださるお方に信頼して、すべてを見る、これが「聖書をメガネに」であり、リハビリの提唱です。