「隠蔽された殉教者 戸田帯刀」

 ペン剣祈祷会の後輩・敬愛する祈りの友川田愉兄から以下の文章が送られて来ました。
 私自身だけでなく、他の方々にとっても大切な記述と判断しました。
ブルグへ掲載許可を川田兄の労でとっていただくができました。

「武蔵野開成会」通信27号 s30年卒戸田栄輔、「隠蔽された殉教者 戸田帯刀」より

次に、開成の先輩(大正7年卒)で、敗戦直後に殉教された戸田帯刀神父のことをお話したいと思います。
戸田帯刀神父が、横浜港が見渡せるカトリック保土ヶ谷教会の横浜教区長館で、頭部を撃ちぬかれた射殺体で発見されたのは、1945(昭和20)年8月18日の夕方、玉音放送で戦争がひとまず終結した、わずか3日後のことでした。47歳でした。神父は横浜教区長という要職にあった、日本人として当時指折りの高位聖職者。慈愛に満ち、信者の誰からも敬愛され、ゆくゆくは大司教枢機卿にまで昇るのは確実とみられていました。その戸田神父がなぜ、射殺されなければならなかったのか? 警察はなぜ、十分に捜査しなかったのか? 戦後のカトリック教会はなぜ、ことの真相を究明せず、むしろ隠蔽しようとしたのか? 新聞はなぜ、ひと言も報道しなかったのか?
すべては今なお、藪の中で、分かっているのは、次のような事実だけです。
射殺された直前の18日午後4時ごろ、憲兵服を着た一人の男が、教区長館に入っていくのを目撃した人がいた。
横浜教区長に先立つ札幌教区長時代の1942年3月、戸田神父は教会内外での言動を咎められ、特高に逮捕されたことがあった(軍刑違反・軍事に関する造言飛語容疑、3ヶ月後に裁判で無罪)。その際、札幌教区内に、当局に内通した“裏切りのユダ”が存在した。玉音放送の翌8月16日、戸田神父は、軍に接収されて特設横浜港湾警備隊の本部となっていた山手教会の早期返還を求めて単身、警備隊に乗り込み、将校に「アーメン野郎が、何をいうか」と追い返された。昭和30年代の初め、東京・武蔵野市の御殿山にある吉祥寺教会に、「私があの時の射殺犯です」と懺悔に訪れた40歳前後の男がいた。ところが、連絡を受けた東京大司教区は、「過ぎたことです。赦しを与えます」と男に伝えて不問にし、警察に通報もしなかった。そのため男はそのまま行方をくらまし、二度と現れなかった。
 そして、その背景には、次のような状況がありました。
 まず、当時のカトリックをめぐる政治的状況。バチカンは、独立国としての地位を確保する必要などから、ムッソリーニ治世下のイタリアはもちろん、ナチスのドイツ、日本の軍部などのファシズム勢力に妥協を重ね、結果として、枢軸国側の戦争遂行に加担する姿勢をとっていた。ヒットラーユダヤ人虐殺に目をつぶったり(このため戦後、当時のピオ12世は批判を浴びる)、満州国を世界に先駆けて承認したのはその現われといえる。日本のカトリック教会も、信者が天皇を神と崇めたり、靖国神社に参拝するのを容認するなど、軍部に迎合する姿勢を強めていた。そうした中で、戸田神父は教義を曲げず、そのうえ世界の情勢を的確に見究めて日本の敗戦を見通していたため、それが、教会内外での言動に滲み出て、軍部に睨まれ、教会内の“ユダ一派”に煙たがられる原因になった―。
 こうした事実や背景から浮かび上がるのは、敗戦という、何もかにもが大逆転したその瞬間に戸田神父に敵対する勢力が遺恨、反感、嫉妬などの感情を爆発させ、それが「謀殺と隠蔽」を生む結果になったということです。いうならば、敗戦直後のカオスの渦の中で、戸田神父はいわば“殉教”され、今なお、その死が闇の中に葬られたままになっているということではないでしょうか。
戸田神父は1898(明治31)年、山梨県東山梨郡西保(にしぶ)村という山深い辺境に生まれ、勉学の志止み難く1913(大正2)年に上京、本所でうどん屋を営む従兄の家に寄宿して開成に入学。おそらくは当時開成に集まってきた地方の俊才と同様、「末は博士か大臣か」を夢見ていたと思われるが、敬虔なカトリック信者だった従兄の感化で、1916(大正5)年、18歳、4年生のときに受洗。1918(大正7)年、開成を卒業。神学校で学んだ後1923(大正12)年、25歳のときに選ばれてローマ教皇庁立ウルバノ大学に留学、司祭に叙階されて1929(昭和4)年、長兄が移民していたアメリカと次兄が移民していたカナダを回って帰国。その後は本所、喜多見、関口、麻布などの教会で主任司祭を勤め、1941(昭和16)年に札幌教区長、1943(昭和18)年に横浜教区長に就任、というのがその略歴です。
 開成では、村山知義、戸坂潤、町村金吾、高浜年尾などと同期です。有名な「鉄拳制裁事件」があったのは、この学年です。これは村山知義が校友会雑誌にクリスチャンの立場から反戦論を書いたのが発端で、これを問題視した町村金吾らが「それでも日本人か」と、殴る蹴るの制裁を加えたという事件。村山知義の自伝に詳しくいきさつが書いてあります。日露戦争から第一次世界大戦ロシア革命大正デモクラシーという時代の波を投影した事件で、戸田帯刀少年もその影響を強く受けていたと思われます。
 実は、私が戸田先輩のことを知ったのはこの春、毎日新聞社経済部の後輩である佐々木宏人君というジャーナリストから話を聞いたのがきっかけで、その後、彼が「福音と社会」という雑誌に連載している『封印された殉教』という膨大なドキュメントを読ませて貰いました。この佐々木君は、麻布の出身(昭和35年卒)なのですが、彼は戸田神父の死の真相を追って、国内はもちろん、ローマ、パリなどにまで飛んで調べていくうちに、戸田神父が開成の卒業生で、村山知義らと同期であることを知り、戸田帯刀という人間の高い見識、強い意思、篤い信仰をはぐくんだのが、一つには、開成の自由な教育、とりわけ、大正デモクラシー下の開成の校風にあったのではないかとの仮説を立て、開成についても詳しい分析をしています。この戸田神父の話には、強い衝撃を受けました。麻布出身者が克明に調べているのに、開成の後輩が無関心ではいられないとも思いました。戸田先輩のことをご紹介したのは、ぜひ皆さんにも知っていただきたいと思ったためです。]

 この件を、自分なりに考え続けたいと覚悟を新たにしています