4月19日(金)  国立国府台病院貧血検査、3日目

4月19日(金)  国立国府台病院貧血検査、3日目、続けて検査。

        午後3時過ぎから7時過ぎまで外出許可、帰宅

        宮村武夫最終巻・『真実の神、公同礼拝コリント人への手紙第一「注   解」届く、感謝。

4月17日(水) Ⅱペテロ1章の味わい その17       

         午前 国立国府台病院貧血検査のため、2週間入院

       

       Ⅱペテロ1:17

        https://youtu.be/u3bOrd36Xbg

 

         

  Ⅱペテロ1:17

 [1]前半

 

「キリストが父なる神から

 誉れと栄光をお受けになったとき、」

マタイ17:1-8 変貌山

 

 [2]後半

 「おごそかな、栄光の神から

  こういう御声がかかりました。

  これはわたしの愛する子、

  わたしの喜ぶ者である。」

 中核は、御子への聴従。

 

敬愛する山形鶴岡矢澤俊彦先生にのメッセージ

 

「自我の殻」から出よとの呼びかけ

-喜びの復活祭の訪れ-

矢澤俊彦

 

この4月21日には復活祭(イースター)という大祭が訪れますので、今日はその意味について少し記してみました。尚、市内どこの教会でもこの日は午前10時前後からお祝いの礼拝があります。市民どなたでもお出でください。

 

◆いい子に育てる危険 ある子育ての本に「いい子にしてしまう危険」とあるのに目が留りました。母親はとかく自分の思いや期待が先行し、子供のあるがままを受け入れることができない。その愛情はしばしば条件付きになります。するともう赤ちゃんのころから子供はお母さんや大人の顔色を見て行動するようになる。そこで家庭が窮屈になり、互いに本音が出せなくなるというのです。いい子になってしまった子は狭い世界を歩かせられ、面白みも自発性も創造性も失っていくのです。家庭の雰囲気ものびやかな明るさに乏しくなるでしょう。

 

◆人間不信の源は しかし母親だけを問題にするわけにはいかないでしょう。なぜなら、その母親が無条件的に子供を受容できないのは、その人自身が幼児時代から不十分にしか受け入れられず、大人や周囲世界に深い不信感を植え付けられて育ったからです。本人にその自覚は薄いのに、人を深く信じられない人間を育ててしまっているのです。

さあ皆さん、これが今の世界の問題です。ほとんどの人が心許せる友がなく、人間関係づくりにも消極的でストレスもたまる。心から笑える経験もなく、いくらおいしいものを食べても、家庭も町も明るさを欠いている。他人に対して、深い不信感が抜き難く存在しているからです。世界中にこんなにラブソングが歌われているのに、誰も自分を待っていてくれる人などいない。すると私たちが日々こんなに求めている愛、あの無条件的受容という素晴らしい体験はついに与えられることなく、このありきたりの、面白くない半端者みたいな生活をいつまでも続けていくほかないのでしょうか。努力してやっと手に入れた小さな小さな光を後生大事にして、世間の風に負けまい、と必死に生きていくほかないのでしょうか?

 

◆自己愛から飛び出せとの声 さて、ここまできて皆さんに御紹介したいのが復活祭です。このイースターは大声で人類に呼びかけています。「さあ、卵から出よ」と。この小さくて狭い自己、そこで毎日展開される「自己愛(自愛)」の生活。固いよろいのような殻。そこには営々として築いてきた生活があるでしょう。磨いた知識・技術も財産も地位というようなこの世の宝もすべてあるかもしれない。でもそれは自分で灯そうとした小さい光に過ぎないのです。

 

◆無条件的愛情の持ち主の出現 そのカラを破ることさえ出来たら、と思うことがあったかもしれません。この脱出が出来なければ私たちはこの卵の中で朽ち果てるほかはないのです。復活祭とは、まさにその脱出の時なのです。なぜなら、この巨大な墓のようなこの世界から追放されながらよみがえった救世主キリストが、皆さんの卵を外から叩きながら、「さあ、今ですよ、出てきなさい」、と優しく呼びかけておられるからです。

このキリストこそ人類が見失ってしまった、あのすべての人を全く無条件で受け入れてくださる。途方もなく大きな受容力をもったすごい父親であり、母親であるからです。

 

◆誕生から生き直したい私 私も今、自分の過去を思い出します。とかくいい子になろうと無理をしてきたこと、泣きたい時に泣けず、怒りを爆発させたいのに我慢してしまい、家庭でも本音を隠してきた日々。それで私は今でも人を恐れ、本音で人とつきあうのが苦手なのです。そこで私もこの復活祭には、自分のよろいもカラもかなぐり捨てて、広い世界に飛び出していきたい。そこで自分の誕生から「生き直し」、キリストという大いなる慈母に「育て直して」いただこう、と決意しているのです。

教会でいう「洗礼」とは、このことを指しているわけで、こうして新たな人生を望む人は、この21日にも洗礼を受けることができるのです。

 

◆人生土壇場での誕生 終わりにキリストと共に十字架につけられた極悪人を紹介しましょう。彼はその木にかけられつつ、隣の高い十字架を見上げながら、その人の清らかさに打たれた。すると生まれ出てからそれまでの自分がいかにあらゆる悪行に染まってきたか、を思った。でもこの人ならそれをゆるし清めてくれるような気がした。そして涙ながらにおそるおそる声をかけた。「旦那、もし天国に行ったら、あっしのことを思い出してくだされ」。その答えは驚くべきものだった。「いいよ、お前はきょうのうちにも、私と一緒に天国におるぞ」。

鶴岡市本町3丁目 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)

ニューイングランドの母校から、イースターメッセージ報告

ニューイングランドの母校から、イースターメッセージ報告

 

APRIL 16, 2019 Christ, Our Ransom

Exodus 21:28-32  

Exodus 21:28-32 preserves a set of ancient Israelite laws known as “the laws of the goring ox.” The first time an ox kills someone, its owner is not liable. However, if the ox repeats the offense, the owner is guilty of negligence and his/her life is now forfeit. However, there is one way out. The offended, that is, the one whose family member has been killed by the ox, may impose a ransom (or redemption payment) on the guilty ox owner. If the offender pays the ransom, his/her life will be spared. This ransom, rendered in Hebrew as koper, and as lutron in Exodus 21:30 of the ancient Greek Old Testament known as the Septuagint, was not granted automatically. Nor was it understood to equal the value of the lost life. Rather, it was a mitigated (lesser) payment that the offended could offer to the guilty party to spare the offender’s life. What I find so astounding about this is that not only has God been incredibly merciful in that he is willing to accept a ransom—which in and of itself shows tremendous grace and mercy—but that God sent his very own son, Jesus Christ, to be a ransom for many! As we prepare to celebrate the death and resurrection of our LORD this Easter, may we be filled with a profound sense of gratitude to Jesus, who ransomed us—offenders in need of redemption—with his own precious body and blood! And can it be that I should gain An int’rest in the Savior’s blood? Died He for me, who caused His pain? For me, who Him to death pursued? Amazing love! how can it be That Thou, my God, shouldst die for me? Amazing love! how can it be That Thou, my God, shouldst die for me?* *(Verse 1 from the hymn, “And Can It Be, That I Should Gain?” by Charles Wesley)

 

 

 

Catherine McDowell, Ph.D. Associate Professor of Old Testament